印西インターネット教会

自分を拘束している不自由さから解放されるための説教

「無力、無学の特典」        マタイ4:18-25

サーカスの大きな象は鎖で小さな杭に結ばれています。思い切り引けば簡単に抜けるでしょう。しかし、大きな象はあたかも杭が自分より強いように思っています。それは小さい時に、辛い訓練から逃げようとしていくら引っ張っても無駄だったからです。つまり、無力感が形成されているのです。この無力は何もできないというメッセージです。あきらめているのです。人生には多少の差はあってもそういうあきらめがあるでしょう。一方、無学とは無知ではないとも言われています。仏教には無学祖元などと無学を名前にした人もいたりして、無学は悟りの境地を示すものでした。親鸞も自分を愚禿と呼びました。蒙古来襲の際に北条時宗は24歳でした。その時に、中国からきた僧の無学祖元はすでに中国にいた時に蒙古軍の侵略を体験していました。恐怖し動揺する時宗に、無学祖元は三語を語ったそうです。「莫煩悩」(ぼんのうするなかれ)。この世では無力、無学についても様々な見方があります。一方、聖書では、無力も、無学も神の選択の基準だと述べられています。つまり、選ばれているしるしです。

イエス様の伝道と4人の選びは切り離せないものだったようです。選ばれた者たちは掛替えのない何かを発見してイエス様についていきました。イエス様自身も神の招きを受け、その弟子たちも招きを受け、またその次の世代のパウロも招きを受けたのです。招きの連続です。パウロは自分の人生を振り返って、「招かれた時のことを思い出しなさい」と命じています。そして「その時の身分に留まりなさい」と第一コリント7:17節、24節では繰り返しています。その召された時の状態というのが無力も、無学の状態、罪の中に沈んでいた状態のことでした。パウロ自身を考えますと、彼はローマ市民権を持っていた有力なユダヤ人であり、有名なガマリエル一世の弟子として高い学識を持っていたことが知られています。つまり、この世的には無力でも、無学の状態でもなかったのです。でも、神の視点から見れば、パウロもまさに罪人であり、無力、無学の状態でした。

福音書をみますと、イエス様はこれら4人の弟子、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどを連れてガリラヤ全域を伝道し、教えたり癒しをおこなったりしました。その結果、ガリラヤだけでなく、さまざまな地方から人々がやってきて、イエス様の一行に従いました。

イエス様が働き人として選んだのは、こうしたペトロやヤコブのような人たちでした。 彼らは全くの庶民でした。そして彼らは漁師でした。肉体労働の人々であって、福音を伝える雄弁があるどころか、人にものを話すということにおいてはどちらかと言えば苦手な人たちだったでしょう。では、せめて人格は優れていたかというと、それもまた違うのです。ペトロは、イエス様を裏切って見捨てた男です。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを押しのけてでも自分たちが神の国で高い地位につこうと思った人たちです。彼らは、人格的に弱い面をもった人々でした。でも彼らは従いました。イエス様の働きに、人間を罪から解放し、勇気あるものとする福音を発見したからだと言えるでしょう。福音は、まず、世の中の価値ないものと思われていた人々を照らしたのです。

失敗だらけの者。感謝のない者。神さまのために働こうと思うのに、実際は神さまの邪魔ばかりしているように思われて仕方がない者。自分の無力を思い知らされる者。‥‥そういう者、それは深く考えればわたしたちのことではないでしょうか。そういう自分にとって、「いったい主はどうして、こんなわたしのような者を招かれたのか?」と不思議に思えてならないものです。「もっと他に、適当な人はたくさんいるではないか?」と考えないでしょうか。知識や能力を持つ人、美しく、目だつ人、お金持ちの人たちは、いつも世の中で注目を浴びています。我が家は千葉県の印西市ですが、息子の一人が鎌ヶ谷高校を受験しようと思っていたので、その近辺を見に行ったこともありました。そのころは寂しいところでした。ところが、今の鎌ヶ谷周辺は賑わっています。そこには日本ハムのグラウンドもあり、斎藤祐樹選手に人気があったころにはファンもたくさん集まっていました。この世界の中心は有名人です。なにしろ彼らはアイドル(偶像)なのですから、人間が作った神でもあるのです。しかし、イエス様の教えでは違います。イエス様が実際に示されたように、世の中心は、子どもたちであり、お年寄りであり、障害を持つ人たちであり、病と闘う人であり、あるいは、目立たない、地味な、ありきたりな人々です。

イエス様はこの世の中心ではなく、その隅に置かれているような一人一人に、「わたしについてきなさい、人間をとる漁師にしよう」と声をかけられました。特別でない一人一人を、まるで特別な宝物を見つけたかのように大切に見出してくださるのです。無価値な者を価値ある者として、命の消えゆくものに新しい命を、罪ある者を罪ない者に変えてくれるのが福音です。印西インターネット教会の目的も、一人でも多くの人々が、福音を発見して愛と感謝の人生を歩むことです。

ルターは「福音において何を求め、何を期待すべきか」という文章のなかで、こう述べています。「あなたは、キリストがあなたのところに来ること、あるいはあなたがキリストのところへ連れていかれるという説教、つまり福音を聞きとらなければならない。キリストが自分の魂を助けたのを知ったら、あなたは、あなたの隣人をも同じようにして助けなければならない。」わたしたちが、弟子として招かれて、最初に直面するのは、家族や友人に福音を伝える自分の無力さであるかも知れません。それは、わたしたちは生まれつき鎖に縛られた象のような罪の習性を持っているからです。しかし、その罪の無力さを自覚すればするほど、私たちが自分の知恵や力で、人々を救いに導くのではなく、神様の全能のカによって、人を救いに導くのだという真理を学ぶことができます。自分の力から神の力にシフトしなくてはならないのです。そして、それはキットできることなのです。それは、無知無学の自覚、無力の自覚、弱さの自覚、罪の自覚から生まれるからなのです。無理して自分以上の存在になる必要はありません。また、イエス様は 「人間を獲る漁師になりなさい」 とは言っておられません。イエス様が私たちを 「人間をとる漁師にしてあげる」 とおっしゃってくださるのです。自分のクオリティーではない。救い主にシフトすることです。そのときに「自分の置かれた境遇に満足すること。貧しい事、豊かなこと。満腹、空腹。どんな状況にも対処できる。」(フィリピ4:11)確信が生まれるでしょう。これは救いです。状況に左右されない救いの信仰が生成することです。何故なら、それはイエス・キリストに招かれ、罪の赦しをうけたしるしだからです。わたしたちを縛ってきた鎖、無力化してきた恐れ、そうした鎖から解放されるのです。このシフト転換、或いは方向転換のことを、神学では「悔い改め」と呼びます。おおきな象さんが、小さな鎖から解放され、神様の自由な世界に目が開かれる時が来るのです。

主イエス・キリストとお会いする時に、新しい魂の誕生が必ずあります。印西インターネット教会では、そのような出会いを多くの方々に持っていただきたいと願っています。皆さんが、さらに深く福音を知り、新しい事に勇気をもってチャレンジし、神と人に喜ばれる今年の歩みが実現しますように。

人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように。

 

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