聖書研究

信仰を特徴づけるものは、喜びと前進であることを聖書から学ぶ

フィリピの信徒への手紙1章19節26節  文責 中川俊介

19節でパウロは自分が受けている投獄という試練は、結果的に救いに至ると語ります。この結果的にという表現には、遠くまで離れて連れていくという意味が込められています。しかし、イエス様の教えのように、パウロは明日の事を思い煩わないのです。まさに、信仰の世界とも言うべきでしょう。それにまた、救いという面も、わたしたちの東洋的宗教観では、それは覚醒とか悟りに近い、認識的なものとして理解されます。ところが、パウロが言う救いは違います。きわめて人格的なものです。聖書の救いとは、ソーテル(救い主)に関連するソテリアであり、また、その救い主という言葉の語源は、人を死から救い出すという意味です。つまり、人を死から救い出す方に結ばれることが、救いなのです。ですから、試練の中で、パウロはその試練が長い道のりを経て、彼自身を救い主イエス・キリストのもとに運んでくれると信じていたのです。

その救いを実現するのが、パウロによれば、彼の努力や業績の結果ではなく、遠いフィリピ教会の信徒たちのイエス・キリストの霊に満ちた支えと、切なる祈りだと考えられています。「パウロは、イエス・キリストのうちに豊かに宿っている御霊に頼っている。」[1] また、祈りという言葉には、一般的には日常の必要を願うという意味があります。ところが、ここでは上位者に嘆願するという意味を含む祈りという言葉が、用いられています。ですから、ここでフィリピ教会の信徒たちが霊に満たされて、上位者である神に向かって、獄中にいるパウロのために嘆願の祈りをささげていたことがわかります。そして、パウロの救いの確信は、こうした祈りに支えられていることにあったのです。

20節では、パウロが自分の願いを人々に吐露しています。それは牢獄からの解放ではありません。パウロは、恥を受けることなく、いつも大胆に、自分の体を通して、それが命であれ、死であれ、キリストの偉大さが讃美されることを願うと述べます。ここには多くの深い内容が秘められていると思います。細部を検討してみましょう。第一に、恥を受けないとは何でしょうか。それは、自分が卑しい態度に出るとか、自己の利益を求めるという意味です。ですから、パウロは困難の故に、自己擁護に走って、主を否定することをおそれたのです。おそらく、パウロは使徒のレベルの人々の中にもそうした事態が起こりうるのを見てきたのでしょう。ただ、パウロが謙虚なのは、そうした裏切り者を高みから批判するのではなく、自分自身もそのような卑しさに走る危険を自覚し、正直に告白していることです。それができたのは、既にキリストの霊の働きがあったからでしょう。次にパウロは、自分の意識ではなく自分の体を通して、キリストの偉大さが賞賛されるように願っています。「その胸の中には『切なる願いと希望』が生きている。しかしその内容は自分のことでも、自分の都合でもない。」[2]

それにしても、なぜ自分の体なのでしょうか。ギリシア語には体という意味のソーマとサルクスの二つの表現があります。パウロが語っているのはソーマ(体)ですが、サルクス(体)の方は肉とも訳され、罪の宿る場所でもあります。ただ、一般的に、ユダヤ人の考えでは体(ソーマ)は物体ではなく心の所在地でした。ですから、体とは魂、あるいは人間性全体と言い換えても良いのです。「胸が張り裂ける思い、断腸の思い」などの表現は、体を魂の所在地としています。また、最後の点ですが、パウロは自分の生き様や、死に様をとおしてキリストの偉大さが讃美されることを望みました。「いずれの場合にも、多くの人々にイエスの栄光が示される一つの時が、与えられるであろう。」[3] これがパウロの一貫した姿勢でした。

20節で語られたことを、パウロは21節で解説しています。手紙の読者にとっても、やはり難しい箇所なのでしょう。生きることはキリストだというのです。これは讃美歌などにも多く引用されている有名な句です。「なぜならクリスチャンになるとは、端的にキリストにおいて自分自身を失うことを意味するからである。」[4] 一方、死ぬことはキリストではなく、利益だというのです。説明にしてはさらに難解です。しかし詳しく見ると、この利益という言葉には深い意味があって、単なる損得ではなく、「人の魂を滅びから救って神の国に得る」という意味です。であるとすると、パウロが言いたいことは、生きることもキリストと共に、死んでも救われてキリストと共にあるということでしょう。「これは私たちにとって非常に驚くべき選択肢であるが、パウロは、主の栄光、すなわちキリストの栄光と名誉のために仕えるという同じ目的に導くものと考えている。」[5] つまり、方向性は生と死によって分かれていても、到達点は一つなのです。パウロの死生観がはっきりと読み取れる箇所です。「彼はその事柄を主のみ手にゆだねているのである。」[6] それだけではありません。わたしたちの生涯も、キリストのためにとか、キリストによってとか、キリストと共にと理解できますが、パウロによれば「人生は一言でいえばキリストそのものである。」[7]

22節では、パウロは自分のサルクス(肉、体)について述べます。先のソーマの時とは語調をかえています。この地上の肉体において生きることが、パウロの実であると言います。この実りとは何でしょうか。「彼は、自分個人の救いをほとんどいつも、自分の宣教のわざが実を結ぶことの関連で語っている。」[8] フィリピ教会の信徒の成長は、パウロの救済観をも強めたわけです。しかし、それでも、パウロはどちらを選んだらよいのかを判断できないと言います。さらに言えば、人生は神の愛そのものであると考えてもいいでしょう。それをパウロは知り、伝えたかったのです。

23節でパウロは二つの選択肢の間で板挟みになっていると告白します。二つの方向に引き裂かれているという翻訳もあります。しかし、「パウロには、主が与えて下さるものを、ただ感謝をもって受けとることができるのみである。」[9] つまり、生き続けるのか、それともこの世を去ってキリストと共にいることなのか、そこに自己選択権の余地はないのです。神の御心が最優先されるというのが聖書の真理です。パウロは個人的にはキリストと共にいたいという気持ちをあらわしています。「死後に続く無意識の状態や煉獄での訓練という考え方は、パウロの期待のまったくの単純さによって否定されている。」[10] しかし、このような礼拝で読まれる公同の書簡で、パウロは何故このような私的感情を述べているのでしょうか。このことも福音の宣教と関係あるのでしょうか。「パウロがこのように開き直った思いと、そうでない思いや気持ちを、フィリピの信徒に打ち明ける決心をしたことは、彼がフィリピ教会に示した最高の敬意である。」[11]

ところが突然、パウロは24節でフィリピ教会の信徒たちとの関係に内容を戻します。脱線していたわけではなかったのです。「パウロにとって、問題は教会であり、イエスのみわざの完成であり、神の栄誉であり、全被造物の更新である。」[12] ここでパウロは、この世の肉体において存在を続けることが、フィリピ教会の信徒たちにはどうしても必要だというのです。彼らのため、あなた方のためにという、パウロの牧会的な姿勢があらわれています。「パウロの運命と教会のそれとは、分かち難く結びついている。」[13] これは何故でしょうか。パウロは、フィリピ教会の信徒たちへの福音宣教の仕事がまだ完成していないと感じていたからでしょうか。

その心情が、25節に書かれています。パウロの願いはは生きながらえて、フィリピ教会の信徒たちのために一緒にとどまることです。ここでは一緒にいるという言葉が繰り返されています。それがパウロの深い心情だったとわかります。この一緒にという言葉はギリシア語でパラメノーですが、なんと美しい言葉でしょうか。それには、「側にとどまる、近くに居続ける、奉仕し続ける、励まし続ける」などの意味があります。キリスト教の教えの中心がイエス・キリストのパラメノーであると言っても過言ではないかもしれません。パウロ自身も、イエス・キリストご自身から、このパラメノーを受けたわけです。そこでの基調音は「あなたのために」、なのです。そして、パウロはこのパラメノーが、フィリピ教会の信徒たちの前進と信仰の喜びのためだと言います。前進と言っても、この意味は困難を克服して前に進むという事であり、まさにフィリピ教会の信徒たちへのための励ましなのです。そして、フィリピの信徒への手紙の基調ともいえる「喜び」にも触れています。それは、地上の好運ではなく、信仰がもたらす歓喜なのです。「信仰を特徴づけるものは、喜びと前進である。」[14]

最後に26節で、フィリピ教会の信徒たちを誇る理由は増し加わるとまとめています。誇りとは珍しい表現です。わたしたちの誇りは自己中心的になりやすいものです。しかし、パウロが頻繁に用いる「誇り」の意味は違います。「その場合、この言葉はしばしば『頼みとする』と同義である。」[15] この場合も、「イエス・キリストにあって」、という修飾語が忘れられていません。わたしたちの人生の失敗は、この「イエス・キリストにあって」、という言葉を忘れることにあるのではないでしょうか。「イエス・キリストにあって」生かされ、「イエス・キリストにあって」悩み、「イエス・キリストにあって」前進し、「イエス・キリストにあって」最終的に救いを受けるということです。

そして、パウロはフィリピ教会の信徒たちを再訪する望みを持っていたことがわかります。この願いは、実現されはしなかったのですが、フィリピ教会の信徒たちを愛するパウロの気持ちが伝わってきます。この愛が、パウロの運命とフィリピ教会の信徒を分かち難く結びつけていたのです。また、この愛によって、パウロ亡きあとも、フィリピ教会の信徒たちは前進を続けることができたのです。そしてそのような愛を受けた無数の人々によって、2千年後のわたしたちにも、救い主イエス・キリストの無条件の愛の真理が伝えられているのです。

[1]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、77頁

[2] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、98頁

[3] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、13頁

[4] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、99頁

[5] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、79頁

[6] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、28頁

[7] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、45頁

[8] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、55頁

[9] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、14頁

[10] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、82頁

[11]  クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、59頁

[12] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、107頁

[13]  前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、58頁

[14] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、30頁

[15] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、73頁

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