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赤穂浪士の討ち入り(西暦1703年1月31日)から320年

討ち入りと言えば12月15日と考えやすいですが、それは旧暦の上のことで、西暦では1703年1月31日となります。つまり、今から320年前です。サムライの社会には、さまざまな切り合いや戦争があったにもかかわらず、「赤穂浪士の討ち入り」が語り継がれているのは、その背景に、現代のわたしたちでも共鳴できる人間的ドラマがあったからだと思います。その一例ですが、ユーチューブの古い映画(1930年代)の中で、秘密に武器を運んでいた大石内蔵助と、彼がなりすましていた立花左近(歴史上は垣見五郎兵衛)の対話を見て、(その多くは作り話であるが)赤穂浪士の嘘をゆるした武士の情けのようなものを感じました。忠臣蔵といえば、討ち入りの勇ましい場面だけが印象に残っていますが、その討ち入りが成功するためには、大石たちが江戸まで東上する際に助けた人々がいたはずです。それに、厳しい封建社会の中で、武器調達を可能にしたのも、天野屋利兵衛のような赤穂浪士に同情的な商人がいたからだそうです。また、血判状に署名したのに、途中から脱落した者のことも記録されていて、本当に人間の存在の多様性を深く考えさせるものです。聖書の中にも似た例が見出せます。それは、サウル王に仕えた若いころのダビデと、王の嫡子だったヨナタンとの間の友情です。当時のペリシテ人との戦闘で、巨人ゴリアテを刀を使わずに斃した羊飼いのダビデは、一躍イスラエルの英雄になりました。そして、サウル王に召し抱えられました。そこまではよかったのですが、精神的にも不安定だったサウル王は、ダビデの国民的な人気の上昇を嫉むようになり、殺す計画をねりました。それを知ったヨナタンは、必至でダビデを助けようとしたのです。考えてみれば、彼の父であるサウルが恐れたのは、王位がヨナタンに継承されなくなることでした。ヨナタン自身もそのことは十分に知っていたと思います。しかし、たとえ将来、自分の地位が失われるような可能性があっても、ダビデに対するヨナタンの友情は変わらず、必死でダビデを逃がそうとしたのです。その時の様子が記録されており、3千年近くたった今日でも、わたしたちの胸を打ちます。「ヨナタンはダビデに言った。(中略)父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。」(サムエル記上20章12節以下)320年前の「赤穂浪士の討ち入り」の背景にも、こうした人の心と心の支え合いがあったのだろうと思います。金銭とか地位とか、無機質なものが優先されやすい現代社会でも、心の友情は失いたくないものですね。そんなことを、「赤穂浪士の討ち入り」後320年の宵に思いました。皆さんはどう考えますか。

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