印西インターネット教会

無実の罪で投獄されても喜びを失わなかったパウロの姿勢から学ぶ(喜びはフィリピ書の基本テーマ)

フィリピの信徒への手紙1章27節30節  文責 中川俊介

パウロはフィリピ教会の信徒たちに再会する希望を述べたあとに27節で、彼らがキリストの福音にふさわしい市民生活をするように望みます。「市民生活をするという動詞は新約聖書にはここと使徒言行録23:1だけに見られる。」[1] それは、ローマに属する自由都市の特権を享受する市民の自主的な生活を示す言葉です。つまり、指導者の有無に左右される浮足立った宗教性ではなく、地に着いた彼ら自身の自律的な生き方を、パウロは求めたわけです。ここで述べられている、キリストの福音とは、「何よりも先ず、キリストについての喜ばしい告知、より正確には、キリストの救いの出来事をその内容とする喜ばしい告知と解すべきであろう。」[2] ですから、その意味を汲みながら、パウロの言葉をさらに解釈するならば、フィリピ教会の信徒たちに既に伝えられた「キリストの十字架の贖いと復活の知らせ」が、あたかも人格を持つかのように、弱い彼らを強め、励まし、前進せしめると告げたわけです。これは彼らの努力によるものではなく、外から来る力です(第一テサロニケ2:11~12参照)。フィリピの信徒への手紙が「獄中書簡」でありながらも、「喜びの書」である理由はここにあるのでしょう。わたしたちの人生でもそれを忘れてはいけないと思います。

確かに、パウロの願いは信徒たちの自立でした。「フィリピの信徒自身の健全さと成熟のためには、依存するのではなく自立せねばならない。」[3] そうであるなら、パウロがフィリピに行って彼らに再会できるにしろ、行けない場合であれ、彼らが一つの霊、一つの魂において結ばれ、福音の信仰のために奮闘していることを聞くことができるだろうというのです。「ここでの論点はキリスト教信仰です。信仰が危機に瀕しているのです。」[4] ですから、パウロが霊的な一致を求めているのはそのためです。現実的には、フィリピ信徒の間で、人間的な思惑からの意見の不一致がみられ、分裂の危機があった事も容易に想像できます。「パウロは、信者たちが危険を察知するようにと警告していると考えられる。」[5] また、小ローマとも呼ばれたフィリピという自由都市自体が反ユダヤ的な傾向の強い場所でした。そうした人間的な反感の多い場所で、その解決法として、パウロは新たに人間的な提案をしようとは考えません。パウロが一貫して主張しているのは、信仰における霊的な魂の一致であり、個人の努力や修行ではなく、兄弟愛なのです。

それにしても、わたしたちの考えでは霊だけで十分だと思うのですが、パウロはなぜ霊だけではなく魂も加えたのでしょうか。この背景としては、ヘブライ的な宗教観があるようです。そもそも、魂というギリシア語はプシュケーですが、これはヘブライ語のネフェシュの訳語となっています。そして、パウロはユダヤ人ですから、当然、ヘブライ語的な意味で魂を考えていたのですが、このネフェシュの意味は生命の源である息です。そしてそれは、人間生命の本質的な願望を示します。日本語でも、両者の息があうといいますが、そのように共に伝道する者が、天から与えられる霊においても、生命体としての存在としても、思いを合わせて奮闘することを求めたのです。

ここで、パウロが強調している「奮闘」という言葉は、「共に」と「競技する」という二語の合成語になっています。スポーツを愛好するギリシア文化を理解したうえで、パウロはフィリピ信徒たちを励ますために、あたかも一緒に試合にでて敵と対戦するような表現をとったのかも知れません。ここで分かることは、伝道の働きが、イエス様の教えにあるように、「二人またはそれ以上の」複数形であることです。そして、複数形であるところ、兄弟愛のあるところに、豊かな聖霊の働きがあるのです。「クリスチャンの戦いは、二方向からである。」[6] つまり、教会内部と教会外における戦いがあり、これには聖霊による一致しか戦う方法がないのです。そして、その戦う敵とは何でしょうか。イエス様は汝の敵を愛せよと教えたのであり、汝の敵と戦えとは教えていません。そこでわかってくるのは、フィリピ教会の信徒たちが一つの霊一つの生命体として戦うべき敵はサタンなのです。「その敵は『やみの世の主権者』である。しかし、この『やみの世の主権者』は、時としてキリスト者自身をも支配していかねないのである。」[7] またこの戦いは、この世の戦いのように相手を屈服させる攻撃的なものではなく、主の愛の掟に従う受動的なものです。「教会の戦いもまた、他者に対する攻撃ではなく、他者の攻撃とこの世の憎しみにさらされながら揺らぐことなく忍耐することなのである。」[8]

28節で、パウロはフィリピ教会の信徒たちが敵対するものたちによって、脅かされることは何一つないと言います。ここでの脅かされるという言葉は、ギリシヤ語聖書ではほかに例がなく、何かに驚かされた馬が突然どっと走り出す様子を示しています。また、敵対という言葉の意味は、行く先を妨害するという内容です。パウロは、フィリピ教会の内部や周辺にそのような反対勢力いたことを熟知していたのでしょう。福音を信じているからといっても、決して現実離れした極楽とんぼではなかったのです。しかし、教会は脅かされたとしても、それにたいして逆襲することはありません。救いを知っているので、この世的な方法で身を守ろうとはしないのです。

それに続くパウロの論理は興味深いものです。このように敵対する者は自分たちの滅びのしるしをもち、それを忍耐する者は救いに至るというのです。「彼らは神に敵対しているのであるから、その結果は破滅でしかない。」[9] それは神の経綸(秩序)を信じているからこそ発せられる言葉に違いありません。愛の神がおられるのに、このような試練がおこることに疑問を持ち、あるいは信仰を捨てた者もいたことでしょう。しかし、それは、この世における悪の存在、先に述べたサタンと関係があります。「今日も『敵対者』は執拗に教会を脅かしている。」[10] 光があれば闇が克明に台頭してくるのです。それも神の経綸です。福音と試練は表裏一体ですが、神のみがすべての事柄を救い変えて下さるのです。そして、この信念はフィリピ教会の信徒たちに対してだけではなく、その後の数世紀にわたる迫害の中でも、多くの信徒たちに勇気を与えた事でしょう。「敵は、自分たちの戦いの空しいことを悟り、自分たちが神と戦って罪を犯し、滅びるのだということを、目のあたりに見る。」[11] それは決して信徒たちの強さによるものではありません。弱さの中でこそ神の栄光が現れるのです。「それはちょうど昔エジプト人が、民を押さえつけようとすればするほど、ますます民が増え広がって行くのを知った時のようである。」[12] 神の裁きに任せて心は平安です。「主のみが邪悪な時代にあって彼らを立たせてくださるのである。」[13] その論拠として、パウロはこのことは神から出ていると述べています。

29節でパウロはさらに説明を加えます。フィリピ教会の信徒たちを励まそうという強い姿勢を感じさせられる部分です。そこで、わたしたちには考えも及ばないようなことをパウロは述べます。フィリピ教会の信徒たちは、キリストを信じる恵みを受けただけではなく、キリストのために苦難を経験する恵みをも受けたのだというのです。カルヴァンはそれを「神の子とされた証印」と表現したそうです。「なぜならば信仰とはキリストとの一体化のことであるから、それは必然的にその苦難をも共有する。」[14] それだけでなく、この苦難を経験するという言葉は、ヘブライ語のパスカ(過越祭)と語源が同じであって、過越しの苦しみを暗示しているように思われます。これは想像にすぎませんが、パウロは、信徒がその信仰の故に受ける苦難を、まさにキリストと共に救いに至る過越しと考えたのではないでしょうか。「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)、とパウロは他の書簡で述べています。そう考えると、苦難も確かにわたしたちが誇るべき神の栄光の冠なのです。苦しみから救ってほしいと願うのが、ほとんどの宗教の救済観ですが、ここでは正反対です。わたしたちの苦しみを肯定的にとらえ、心の中のアーメンと共に、キリストと共に苦難を経験する恵みとして認識するのです。だから、苦しみは貴重な賜物なのです。「キリストの立場に置かれて苦しむことは、愛によって彼らに与えられた神聖なる賜物であるとパウロは敢えて断言している。」[15] そして、そこには神のみから与えられる深い喜びが隠されています。パウロはそれを牢獄の中で受けたさまざまな虐待や屈辱、悲しみを通して神から示されました。そして、それはどうしても伝えずにはおれなかったほどの喜びだったのです。日本のキリシタン迫害の記録を読んでも、迫害を受けた者たちの言葉から同じ喜びが伝わってきます。さらに、それはわたしたち自身の人生観というか、価値観を喜びの方向に大転換させるキリスト教思想そのものなのです。

30節には、このようにパウロが確信する理由が書かれています。パウロはここで、自分とフィリピ教会の信徒たちを同等に扱います。自分が今受けている苦難を、彼らが見たり聞いたりしていると同じように、彼らもフィリピの地で同じ戦いを共に戦い抜いているのだと言います。「それは、実質的に、自分たちの苦難をキリスト体験として理解することの勧めである。福音のために苦しんでいる信仰者に、これ以上のことを求めることができようか。」[16] 地理的には離れていても、ここにパウロが言わんとしている霊と魂の一致が見られます。喜びも困難も、イエス・キリストの十字架において共に分かち合っているのです。「同じような抵抗にあったことだけでなく、同じ恵みの中で、彼らを愛する方を通して圧倒的な勝利者になることができると思い出させたかったのであろう。」[17] その神の勝利を信じ、常に喜びに満たされることに、教会の本質的な姿があると学ばされます。

[1]  ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、32頁

[2] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、77頁

[3]  クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、67頁

[4]  ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、57頁

[5]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、88頁

[6] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、89頁

[7] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、85頁

[8]  ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、121頁

[9] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、35頁

[10] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、119頁

[11] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、17頁

[12] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、123頁

[13] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、91頁

[14] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、35頁

[15] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、61頁

[16] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、70頁

[17] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、93頁

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