書評

安部公房著「終わりし道の標に」、冬樹社発行、1969年

わたしはこの本の背景でもある中国の東北部ある瀋陽に向かっていた。大連から瀋陽までは初めて中国の新幹線に乗ってみた。過去に事故があったりしたので、少し怖い気もしたが、周りで賑やかに話す中国人たちの笑顔を見ていると、いつか不安も消えて、窓の外の景色に吸い込まれてしまう。安部公房が幼年期を過ごしたころもそうだったのだろうか。大平原に延々と高粱の畑が続いている。列車があまりにも早いので、近くのものは早送りの映像のようだが、中国の農村の遠景は心がなごむ。隣にすわった中国人が「東北地方の米はうまいぞ、日本人が植えたんだ」となまりのある中国語で話してくれた。異国なのだが、何故か故郷のような気もする。瀋陽(奉天)では、清朝の皇帝ヌルハチが作った故宮を訪れた。北京にも故宮はある。清朝をつくった満州族のヌルハチはもともと中国東北部の出身なのだから、規模は小さいが、瀋陽の故宮の方が元祖なのかも知れない。故宮は街の中心部にあるので、安部公房も中学生の頃には見学に来ていたかもしれない。故宮の遺跡の解説を読んでみたら、満州族の王たちは、単に政治的指導者だっただけでなく、霊的なシャーマンだったことがわかった。

そういえば、この本を買ってから何度も転居したが、この本だけは手放したくないと思ってきた。何故か。それがわかった。「終わりし道の標に」は単なる小説ではなく、わたしにとってシャーマン直筆の教義のようなものだったわけだ。この本は、三部のノートで構成されている。わたしが学生の頃に興味を持ったのは、第一のノートであり、そこに「終わりし道の標に」と副題がついている。今考えてみれば、安部公房自身も、故郷があってもなかったような人だと思う。日本人だけど、育ったのは瀋陽の日本租界だ。まわりには満州族やら漢族やら朝鮮族、そして時には、オロスと呼ばれるロシア人もいたに違いない。新幹線に乗っている時に、そのミニチュア体験をできたのは嬉しい事だ。それにしても、実存、実存と呪文のように唱えていた自分の若いころが懐かしい。その前の生活の規範はは、共産党宣言であり毛沢東語録だった。そうしたものから造反有理してから、自分は、ニーチェに始まり、ゴダールとかサルトルとかを、よく理由もわからないままに崇拝していた。そこで安部公房の「終わりし道の標に」触れたものだから、これだと思った。ある種の祈祷書になった。シャーマン阿部公房が、「故郷とは、要するに自分の足で踏みかためられた環境の一角の名称にしか過ぎぬのではあるまいか。それもただ、(かく在る)と言い続けるために・・・」と語れば、わたしは自分の土地を捨て、「出発したのだ、荒野へと・・・」。実際に、簡単な荷物をまとめて家出し、京都で葬儀屋の仕事をしながら1年ほど社会運動にかかわったのだ。あとで、聖書を読むようになって知ったのだが、アブラハムも家出している。しかし、その理由がわたしとは全く違っていた。「アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12章4節)先に話したシャーマンとは、預言や託宣、治病などを行う人の事らしいが、アブラハムこそ真のシャーマンだったわけだ。わたしは束縛の多い故郷、母子家庭の不自由さから自由になれると思っていたが、自分自身という「踏みかためられた環境」から逃げることはできなかった。おそらく、安部公房自身もそうだったのだろうう。今だからわかる。彼はこう書いている。「私の逃走中、従者のようにつきまとって離れなかった、わたしの影・・・またの名を故郷という。私は身をふるわせた。ああ、この愚かな目覚めを待つために十年もの放浪が必要だったとは・・・。」わたしの放浪はさらに数十年に及んだ。そして自分なりの結論を得た。アブラハムは心の中に神の託宣を受けて従ったのだが、それは自分で自分の故郷を否定する自己撞着した矛盾ではなく、外部からの存在否定の受容だったのだ。この受容が起こる時に「自分自身という踏みかためられた環境」は在ってもいいし在らなくてもよくなる。どうでもいい。実は、その状態が本当の自由なのだ。パウロも言っている。「金持ちでもいいし、貧乏人でもいい。」、「健康でもいいし、病気でもいい。」すべてに感謝。それにしても、安部公房という人生の先輩もすごい歩みをしている。この点では、自分は足元にも及ばない。瀋陽で育ち、飛び級で中国の学校を卒業し、東京に学びに行き、数学の天才と言われ、結核で死にそうになり、故郷に戻って回復し、再度東京に行き東大の医学部で学び、瀋陽に帰って開業医の父親の手伝いをしていた時に親が発疹チフスで死亡。敗戦の為に家を追われ、サイダー製造などして家計を助け、引揚者として帰国したあとも、医者としては生きない道を選ぶ。やはり、荒野だったのだ。

ただ、書き忘れるところだったが、この本の第三のノートには「知られざる神」という副題がついている。学生の頃の自分は、唯物論を信じていたので、この部分には全く興味を持てなかった。いま改めて読んでみると、安部公房の言いたかったことや、言えなかったことが分かる。それも数十年にわたる心の放浪のおかげとして、彼に感謝したい。「知られざる神」という表現は、知る人は知るという句であり、新約聖書の使徒言行録にある言葉なのだ。パウロがアテネにいたとき「知られざる神」にと刻印してある祭壇を見つけた。そこでパウロは群衆に語った。、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒言行録17章23節)この副題を見ると、安部公房はきっとキリスト教関係の事に触れるのだろうと想像してします。期待して読むとチョット残念な内容なのだ。この部分は今回初めて真剣に読んでみた。放浪前でなく、放浪後なので、わたしの読み方も厳しくなってきて、かつての偉大なシャーマンもこの程度の思想しか持っていなかったのかと少し横柄に考えてしまう。恩師に失礼な言い方をしても、度量が大きい人なら許してくれるだろう。この部分には、高というクリスチャンが登場する。余談だが、わたしも高さんというハルピン出身の中国人を知っている。中国東北部の名前だと思う。中国語の発音は高(ガオ)という。こんな名前の引用にさえ、安部公房にとって中国東北部の記憶が鮮烈だったのかなと感じさせられる。高が言った。「やはり僕の祈りがとどいたのかな。僕は、なんだか、信仰をとり戻せそうな気さえしてきたよ。」これはよくクリスチャンの間ではよく聞く表現でもある。一方、主人公のTの方はこう言う。「だが私は神がきらいだ。気乗りがしないという以上に、もっと積極的に、虫が好かない。いくらもったいぶったところで、神なんていう代物は、せいぜい故郷の親分のようなものではないか。」故郷から逃げようとしているのに、故郷の親分みたいな神は御免被りたいというのは理屈である。そして言う。「信仰こそ、自己占有にまっこうから対立してくる、敵対概念なのである。」残念ながらここで、安部公房の浅さが露呈してしまう。安部公房が本気で実存主義を提唱するのなら、この敵対概念こそウエルカムなのだ。歓迎でしかない。日本人でも熊沢蕃山などは、「憂きことのなほこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」という思想を持っている。それをわかっていなかった彼が、恩師ではあるが、残念だ。先のアブラハムは、捨てがたき故郷を捨て、捨てがたき自己を捨てさせられて、完全に受け身になった時に、弁証法的に、完全に自由になった。実存主義を学ぶなら、その元祖である、キルケゴールやルターを学ぶべきだと思う。キリスト教と弁証法的思想は切り離すことができない。ニーチェでさえ、ルーテル教会の牧師の息子として育ち、「神は死んだ」と書いても、その思想は深い。天国にまでとどく巨木は、地獄にまで根を張っていると述べている。それは、神という絶対他者を想定するから可能なのだと思う。仏教では絶対「無」を対比させて、人間の思考の中だけでグルグル回る自問自答に終止符を打っている。日本の思想家では、森有礼の孫にあたる森有正というパスカルの研究家だった人が、アブラハムに与えられた自由について書いている。この思想は深い。それは否定の中の肯定なのだから。

最後に、なぜ安部公房、いや、日本の多くの人がキリスト教を毛嫌いするかの部分を引用して終わりたい。高が主人公Tに彼の妹の事を語る場面がある。「妹のほうでも、信者独特の直感で、僕の精神状態を感じとったらしい。さっそく例の独善的な押し付けがましさで、僕を信仰に引き戻そうとしはじめるんだ。実際、たまらなかったねえ、まるで、傷をなおすのに、その傷口に指をつつ込んで、引っ掻きまわそうとするようなものじゃないか。」さすがに文学者だから、日本のクリスチャンの誤った神学を突いていると思う。わたしもマルクス・レーニン主義者だった時に、クリスチャンだった妹から、同じような指摘を受けて、キリスト教に対する嫌悪感を抱いたことがある。しかし、それは、日本のキリスト教固有の独善だと思う。逆にいえば、マイノリティーの自己防衛反応なのではないか。アメリカではそういうことはなかった。それに、長い放浪の後で、わたしは気づいた。わたし自身も、以前に、そのような自己防衛反応を無意識に持っていた。森有正などは正反対であり、独善どころか、この神には、誰にも話せないような自分の汚濁点、恥部を通してしか出会うことができないと述べている。実にすごい。おそらく、安部公房が嫌った神、独善的クリスチャンが信じた神は、本当の神ではなく、フォイエルバッハが言う、人間が勝手に造った神であり、偶像なのだろう。安部公房が、このような神を拒絶したのは当然である。日本人がこのような神を拒絶するのも当然なのだ。しかし、父方は薩摩藩士であり、母は徳川篤守の娘であって、いわば生粋の日本文化の寵児である森有正が、翻訳文化によってではなく、実際の外国生活体験と流暢な外国語を通して発見した神は、聖書の語り継ぐ、アブラハム・イサク・ヤコブの神、慈しみと赦しに満ちた神だった。自由と平等の神、そして命と愛の神、光の神。わたしも人生の放浪の果て、終着駅も見えてきて、終わりし道の標にたつとき、過去のシュトルム・ウント・ドランクのなかで出会う事が出来た神はこの恵みの神だった。だが、まだまだ日本では、二千年前のアテネのアレオパゴスの丘と同じように、「知られざる神」という道の標が立っている。誰もそれに疑問を持つこともなく。これで本当にいいのだろうか。

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