トルコのアンテキアで地震後のがれきの中から少女が救出されました。このアンテキアとは、新約聖書にも登場する場所です。「このアンティオケアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(使徒言行録11章26節)この街には、初代教会の有力な拠点があったようです。そして、ここは古代セレウコス朝シリアの首都がおかれていた場所でもあります。こうした歴史的な街ですが、それなりに古い建物も多く、地震の被害にあってしまったのかもしれません。そうした瓦礫の中から救助隊の懸命の努力もあって、10歳の少女が救出されました。しかし、瓦礫に押しつぶされた腕を切断することなしには、助け出すことができなかったのです。自分がこの女の子の親なら、腕を失っても、命を助けてほしいと思うでしょう。しかし、自分が女の子だったら、どう思うでしょうか。障害をもっての頃の人生を耐えていくのか、それともそのまま死んでしまいたいのか。おおきな疑問です。聖書には、これに似た例話が出ています。「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイ福音書5章30節)これは、とても残酷な選択だといえます。ただ、この比喩が伝えたいことは、人生で何が一番大切なのかということだと思います。なぜなら、同じ福音書にこう書いてあるからです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ福音書16章26節)聖書では、命や光、そして愛こそ神と同義語です。命を失うことが、光や愛を失うのと同じ意味です。地震の瓦礫の中から救出された少女も、我に戻ったら、腕を失った損失に心が打ちのめされるでしょう。しかし、時がたてば、救出隊の人々が命の危険を冒して自分を救い出してくれたことを改めて感謝するでしょう。そして、体の一部を失っても、命が救われたことのありがたさを知るのだと思います。これは、たいへんに痛い選択ですが、人生には、「失う事なしに得る物はない」という真理を教えているのだと思います。われわれの時代は、得よう得ようとする欲望が第一の動機となってしま士、人生の真理に目を向けなくなっているのではないでしょうか。昔の日本人はそれを知っていました。「武士道とは死ぬこととみつけたり」(葉隠)