フィリピの信徒への手紙2章1節 –4節 文責 中川俊介
パウロは前節で、フィリピの信徒たちが伝道の戦いの同労者であることを強調した後で、2章1節からは、彼らに自分の願いを語りかけます。「つまり、脅威に直面している教会は一致する必要があるというパウロの勧告、その勧告の結びを結んでいるのである。」[1] あなたたちは出来ていないから、これからやりなさい、という命令ではなく、ここで見られるパウロの論法は、あなた方を信頼しあなた方と同一の戦線で戦っているのだから、既に伝えてきた次の事を守っていただきたい、という丁寧な懇願です。そのために、「喜び、交わり、愛、協力、あわれみ、一致、思いなど」[2] の用語を用います。それらは、フィリピの信徒たちがパウロから学んでいたことがらでした。
これは、わたしたちの生活でも大切な事であり、悪魔の介入の防止策ともいえるでしょう。つまり、人間の心の中にある批判に対する反感や抑圧感を、悪魔が敵対・対立の好材料としやすいのですが、パウロはそれを極力避け、愛を基本とする奨励によってフィリピの信徒たちが神の救いを既に与えられ心得ているという自覚に導き、教会の進展をうながしたのです。パウロが優れた牧会者であることを示す部分です。「パウロは1節で、ピリピの人々が現在すでにうけている祝福を指摘した。」[3]
ですから、1節の中で、パウロは4度も「もし~なら」という譲歩した言い方を用いています。これは、肯定的な「何故なら」と訳してもよいギリシア語の用法であり、架空の設定や根拠のない条件をあげているのではなく、パウロの教えが既にフィリピの信徒たちのものになっていることを前提とするものです。こうした「条件節の使い方は、要求、命令、指図のための根拠として用いられたものである。」[4] その点を詳しく見てみましょう。第1にパウロは、「もし、あなたがたにキリストにある励ましがあるなら」と言います。この場合の励ましという言葉は、パラクレートス(聖霊、弁護者)と類似の語であり、フィリピの信徒たちにキリストの福音伝道者の権威を擁護する熱意があるなら、という意味でしょう。これは、単なる優しさとか、激励と違うことは確かです。第2に、「もし、あなたがたに無条件の愛の勧めがあるなら」と言います。これは、パウロがフィリピの信徒たちに、伝道に際して自分と同じような無条件の愛を求めていることでしょう。第3には、「もし、あなたがたに聖霊の交わりがあるなら」、と言います。これは、フィリピの教会の信徒間の交わりが聖霊によって導かれることです。「聖霊の賜物と信仰者が経験する聖霊の内在と働きが、パウロの勧告の出発点である。」[5] 最後に第4として、「もし、あなたがたに腹の底からの愛情と、家族に対するような情愛があるなら」、と言います。それは、「たぶん、パウロが、フィリピの信徒たちに対するキリストか神のあたたかい愛情と優しさを表そうとしたのであろう。」[6]
さて、その「もし」という4つの要項を受ける後半の句は何でしょうか。それをパウロは2節で語ります。1節に対応するように2節でも、パウロは繰り返しの手法を用います。そして、フィリピの信徒たちがパウロと同じ考えになり、同じ無条件の愛をもち、同じ魂となり、一つの考えにまとまり、わたしの喜びを満たしてください、と結んだのです。「パウロは、まるで自分に示される慈愛の行為でもあるかのように、彼らにそのことをお願いするのである。」[7] ここでパウロは、キリストに従うとか、神に仕えるなどという三人称的な表現を用いず、まさに二人称で自分の喜びを満たしてくださいと願うのです。特に、「満たす」という言葉は、ギリシア語のプレローであり、これは預言が成就するという意味で用いられることが多く、歴史的時間経過であるクロノスではなく、神の時であるカイロスの完成を示す言葉です。ですから、パウロは、フィリピの信徒たちが自分と同じようなキリストにおける無条件の愛に達することによって、相互の存在において神の救いの業が完成すると述べているのだと思います。そのしるしとして、パウロも喜びで満たされるのです。ですから、この「喜びは終末に際して与えられる喜び」[8] なのです。パウロは終末を先取りしていたとも言えるでしょう。そして、フィリピの信徒への手紙の基調である「喜び」はまさにこれだと分かるのです。
ですからここは、パウロが指導者としてフィリピの信徒たちの活動の成長を自分のために願っているのでなく、パウロ自身の中に生きて働くイエス・キリストの救いの時の到来がキリストの教会の完成によって実現することを共に喜びたいという心情なのです。キリスト教の秘儀とも言えるでしょう。つまり、多くの宗教は個人の悟りや自覚によって完成するのに比し、ここでパウロが無意識に表明しているのは、個人主義や個人信仰観を超越した世界、共にキリストの体に連なる教会そのものに救いの完成を見るという点です。キプリアヌスが「教会なくして救いなし」、と語ったのも教会だけが絶対だという唯我独善的な観念としてではなく、パウロの文脈で考えるならば優れた信仰観を表すものとなるでしょう。「一致の根拠と一致を脅かすものを問題にする場合、全く別の事柄が決定的に重要である。教説を土台にしているプロテスタント教会の歴史は、人間がますます新たな分裂をただ繰り返すだけであることを示している。」[9] それが教会の現状だったかも知れません。ただ、パウロは恵みについて語った後で現状の問題点に触れます。「パウロの使徒としての高潔さでもってしても、妬みやそねみを、教会から取り除くことができなかった。」[10] しかし、前述したように、恵みを先行させていることで、手紙の読者に、自分たちが叱責をうけているという印象を与えないようにしています。まず神の恵みを提示し、それに対して同じ気持ちで従いましょうという形式をとっているのだと思います。「それは、絶対他者である神との出会いは、相対他者である他の人との真実な出会いを避ける姿勢からは起こりえないからであろう。」[11] これはわたしたちの日常生活でも大切な事柄です。
パウロは言います、何事も自己中心や虚栄心からするのではなく、へりくだった思いで、互いに相手を自分より優れた者とみなし続けなさい。ここで、「自己中心」と訳されている言葉の語源は日雇人であり、人に物を贈って自分の手下をつくろうとするという意味です。ですから、野心とか党派心とも訳され、このことはフィリピ教会の信徒たちの関係がキリスト中心ではなく、人間の権力や支配が中心の組織を生み出していたことがわかります。また「虚栄心」にもパウロは意味の深い用語を用いています。それは、ケノドクシアであり、ケノは空虚の意味で、ドクシアは神の臨在の栄光の意味です。そうはわかっていても、罪ある人間は、上下の差別や、優劣の差をつけたがるものです。パウロはそうした傾向を全面否定することなく、むしろこうした人間的思考を逆手にとって、誰でも他者を自分より優れた者とみなしなさいと命じたのです。「相手を全体として自分よりすぐれたものとすることは、罪深い自分に絶望するものにのみ可能な生き方である。」[12] その時、「各人は、小さな奉仕や目立たない働きを喜ぶ。」[13] 皆がこのように考えたら、党派争いや、階級差別は消えてしまうでしょう。
そして、実に、イエス・キリストご自身こそ自分を低くされた方だったのです。すべては、イエス・キリストに帰結します。さらに敷衍すれば、神ご自身が自分を低くして仕える立場におられるという発見に至るものです。カトリック神父さんにある人が、「神はどこにおられるのですか」、尋ねたところ、その答えは、「あなたが立っている足の裏です」だったそうです。これも、人を低きところで支える愛の神の姿なのではないでしょうか。こうした謙遜の考えはどのような文化にもみられるものですが、キリスト教が教える謙遜は、「被造物として神に依存していることと、神の前に本当の自分たちの状態を認識すること」[14] に基礎を持っているのです。「この謙遜という言葉は福音が生み出したものである。キリスト教の時代の前には現れていない。」[15] 「この謙遜とは奴隷の意識を示す言葉である。」[16] つまり自己完結的な美徳ではなく、神との関連における自己認識に端を発するものなのです。
4節でパウロはさらに続けます。おのおの自分の目指すゴールだけではなく、他の人々にも注目しなさいと命じます。これが丁度、前述の「自己中心」と対になっているわけです。また、ここのゴールには弓の的という意味もあります。聖書では的外れが罪の意味です。パウロにとって自分の事だけ中心に考えるのはやはり的外れなのですが、それを直接非難するのではなく、自分のことだけではなく他者の事も考えなさいと諭しているのです。わたしたちなら、自分の事を考えないで他者中心にしなさいという律法主義に陥りやすいものですが、パウロはそうしません。人間の弱さを十分に理解したうえで、党派心を避け、自己中心になりすぎないように諭しているのです。そうして、このような勧告をする前に、パウロは福音における無条件の愛に共に生きる喜びを伝えます。
[1] マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、94頁
[2] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、71頁
[3] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、95頁
[4] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、72頁
[5] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、95頁
[6] ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、67頁
[7] シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、19頁
[8] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、96頁
[9] ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、129頁
[10] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、74頁
[11] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、98頁
[12] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、99頁
[13] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、19頁
[14] 前掲、マーチン、「ピリピ人への手紙」、98頁
[15] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、56頁
[16] 前掲、ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、69頁