今週の説教

多くの苦しみの原因は原罪にあることを知る説教

「信仰の特効薬」          ルカ18:31-43

病気には特効薬があります。インフルエンザのタミフル。マラリヤのキニーネが効くそうです。人生の問題に特効薬はあるのでしょうか。あります。「あなたの信仰があなたを救った。」これです。今日の福音書の日課ではイエス様はご自分のことを預言しました。エルサレムという首都に行くことでした。当時の古代社会でも有数の華やかな都でした。2百年前の日本ですら、山の中の田舎から京都や江戸に出たら驚いたと思います。弟子たちは嬉しかったと思います。多くの奇跡でもうすでにスーパースターだったイエス様が王様になるという夢もあったでしょう。自分たちは第一の家来と思っていました。ところが、イエス様の言葉は、神の都エルサエムで、逮捕され、侮辱され、拷問され、唾をかけられ、鞭打たれて殺害されるという事です。犯罪者として死刑にされるという事です。死んで死を滅ぼすという偉大な救いの働きです。しかし、それまでイエス様と寝食を共にして3年間伝道した弟子たちにも、当時はこのことを何回か聞いていたけど聞けていなかったのです。霊性の欠如です。

使徒書の日課でも、パウロは同じように人々の無理解を述べています。フィリピ書3:18に、「涙ながらにいいますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」と書いてあります。つまり、その意味は腹を神としているというのです。人間の欲望が中心で、この世の事しか考えないということです。弟子たちもそうだったのです。

さて、この十字架の預言と盲人の乞食の癒しは、別ではなく一つのまとまりを持っています。マタイ福音書でも、マルコ福音書でも、同じ流れです。特にマタイ福音書、マルコ福音書では十字架の預言の後、弟子たちは意味がわからず、自分たちが、スーパースターだったイエス様のもとで偉くなることしか考えていなかったのです。王様の家来としてナンバーワンになることだけを考えていたことが書かれています。人間的ですね。この世の事しか考えないということです。ここで聖書は、まさに弟子たちの失敗をさらけだして、神の救い主イエス・キリストな何を達成したかだけを伝えているのです。それは十字架による死と罪からの解放でした。ですから、逆に、聖書を読んで慰められるのは、イエス様と3年間も行動を共にした弟子たちでさえこの世の事しかわからなかったし、分かるようになったのは彼らの努力ではなく神の愛だということです。ですから、今わからなくても問題ありません。ペテロも後にこう書いています。「あなたがたは羊のようにさまよっていました。」(第一ペトロ2:25)ペトロ自身も間違っていました。わたしたちはなおさらという事です。それ以上に間違い多いわたしたちですが、必ず救われます。「あなたの信仰があなたを救った」、という信仰の特効薬があるからです。その例が、後半の乞食の話です。

現在の日本には乞食はあまりいません。ホームレスdセスえも人に金を求めず自分で空き缶などを集めて収入にしています。まあ、自立しているのです。中国などには街頭に乞食がいます。道路に皿や空き缶を置いて黙って座っているのです。腕や足がないなど体に障害のある人が多いです。そこに小銭を入れてあげると、謝謝と言います。イエス様にあった盲人の物乞いも目の障害を持っていました。

弟子たちの出身はガリラヤの田舎でしたが、盲人の乞食はエルサレムから遠くないエリコという古代から最も裕福な都市の一つの近くで物乞いをしていた人でした。また、町が裕福であればあるほど、盲人バルティマイの生活は惨めであり、卑しめられていたことでしょう。なにしろ、当時は、病気だとか、障害だとか、不幸など全部が神の呪い、人間の罪に対する罰として起っているのだと考えられていたのです。ですから、盲人を見る人は、この人はどんな罪を犯して神の裁きをうけたのだろうか、それともこの人の親が犯した罪は何だろうと軽蔑していたに違いありません。一方で、健康な弟子たちは、以前は漁師で船も持っていましたし自分自身にプライドを持っていました。

けれども、イエス様の態度は人々とは違いました。逆でした。大勢の人が、イエス様に助けを求めるうるさい盲人を叱りつけました。エリコの町では背の低いザアカイが群衆でイエス様を見られないので木に登って見ようとしたと書かれています。スーパースターだったイエス様の周りには大勢の人が集まっていたでしょう。ザアカイは木に登りましたが、物乞いはイエス様の来る様子を音で感じていました。目の見えない人は音に敏感です。また彼は、木に登れないし、たとえ登っても見ることはできません。だから物乞いは自分にできる唯一の事を行ったのです。それは叫びでした。大きな声だったでしょう。それも一回二回ではなかったでしょう。しつこいくらいに叫んだわけです。人々が大きな声で叫ぶ盲人を「うるさいやつだ」と思っていた時に、イエス様は卑下され差別された彼の孤独と魂の苦しみを痛感したのです。

そこで立ち止まって盲人を近くに呼んでくるように命じました。それほど多くの群衆がいたわけです。盲人が連れてこられると、尋ねました。「あなたの願いはなにか。」彼は答えました。目が見えるようにしてほしいです。そこで、イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言って、盲人の目を癒しました。それは当時の人々が考えていた信仰ではありませんでした。敬虔な態度でもありませんでした。慈善活動でもありませんでした。イエス様が初めて認定した信仰でした。おそらく盲人の乞食は、叱られるだけでなく、殴られたでしょう、怒鳴られたでしょう、蹴られたでしょう。それでも、イエス様を救い主と信じてあきらめなかったことをイエス様は「あなたの信仰」と認定したのです。「信仰の特効薬」はこれでした。求めよさらば与えられんです。信じて求めることです。

差別され、卑しめられた生活の中で、盲人はずるく生きたり、嘘をついたこともあったでしょう。神の教えに従えなかったこともあったでしょう。しかし、その盲人の弱さ、すべての人が見向きもしなかった彼のすべてを、イエス様は愛して下さったのです。神の愛は無条件の愛です。そして、見えるようになりなさい、という愛の言葉を与えて下さったのです。この事の後に、やがてイエス様はエルサレムに行き、人々に侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、刺々しい冠をかけられ、十字架上で無残な死を遂げたのです。それは、イエス様も信仰の人だったからです。すべての人を苦しめる死を滅ぼすために死の犠牲を求めたからです。見えない者、物乞いしかできない者、叫ぶことしかできない者、それをわたしたち自身に重ね合わせてみましょう。ルターもわたしたちが神の前の乞食だと言いました。助けを叫び続ける者です。そのとき、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」というイエス様の言葉を聞くでしょう。旧約聖書出エジプト記3:7に神が「わたしはあなたの苦しみをつぶさにみて、その痛みを知った」と書いてある通りです。「信仰の特効薬」とは病院と同じです。痛みを知り、医者の下に助けを求めて行くことです。わたしたちもすべての苦しみの原因が罪という病から来ていることを知り、イエス様という偉大な救い主に助けを求めて叫ぶだけで癒していただけるのです。盲人は見えるようになりました。わたしたちも霊的な目が開け、現在に不満を持つのではなく感謝できるようになります。「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った。」この偉大な言葉は今も同じ効果を持っています。それが「信仰の特効薬」です。

 

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