「無花果裂けて十字架見ゆ」 ルカ13:1-9
イエス様は、洗礼のヨハネと同じく悔い改めを説きました。悔い改めとは、神に背を向けて生きていた生活を反省して神の方に方向転換することです。つまり、神は愛であり命であり光なのですから、神がわたしたちの人生に既に与えておられる、愛と命と光を認め、心から感謝するのが悔い改めになります。ただ、人間には罪がありますから、自分で努力して神に賞賛される立派な人にはなれません。だから、そういう弱いわたしたちに、人生の向きを変えることだけは命じられています。イエス様の時代の人々も、ある程度はこうした悔い改めの事を知っていましたが、神の裁きについては間違った考えを持っていました。つまり、因果応報という見方です。善い人は神の祝福があり、悪い人には神の裁きが降るという考えです。その一例がイエス様の故郷のガリラヤでの事件です。そのガリラヤの人びとが、ローマ総督のピラトが大規模水道工事のために神殿税を使用するという政策を実施したことに、反対して戦ったのです。すると彼らは、権力者から逆に迫害され、神殿に逃げ込んだ者は、なんと聖なる神殿内で虐殺され、それだけでなく、なんと彼らの血が聖なる動物のいけにえの血に混ぜられ、神殿が汚されたのです。ひどいことをしたものですね。当時にも報道機関があったとしたら、特別な重大ニュースとなったことでしょう。このガリラヤ人の災難について、エルサレムの人々は、彼らが日頃から悪かったから神の裁きがくだったと考えたのです。因果応報説のような考え方ですね。エルサレムのユダヤ人たちはガリラヤ人を差別して考えていたわけですので、そんな偏見がうまれたのです。
しかし、差別心のないイエス様の解釈は違いました。特定の人が悪くて裁かれるのではない、というのです。誰でも神に背を向けているからです。では、シロアムの塔の事件はどうでしょうか。これはガリラヤ人ではなく、エルサレムの人たちの事です。それまでは,ガリラヤ人のことで「あいつらは神の裁きを受けたんだ」と批判していたエルサレムのユダヤ人は、シロアム事件のことを言われて驚いたでしょう。これは、イエス様の独特なユーモアだとも考えられます。自分たちの町であるエルサレム、それもエルサレム神殿のすぐ隣にあったシロアムの池の所で、塔を造る工事の時にその塔が崩れて18人が死亡したという、彼らにとって不吉な出来事があったからです。ガリラヤの事が裁きなら、これも裁きではないですかと、イエス様は皮肉ったのです。
ですから、イエス様が言いたかったのはこういうことです。ガリラヤ人だけでなくシロアムの塔が崩れて死んだ人たちも特に罪深かったのですか。そうではないでしょう。誰でも悔い改めなしには滅ぶのですよということです。繰り返しになりますが、因果応報の考えは善人と悪人を区別します。善人には祝福があり、悪人は裁きを受けて滅びるという考えでした。カルト宗教なども、自分たちを「善人」の立場において、無信仰な者を断罪します。しかし、もしそうなら、イエス様の周囲に集まった不幸な人々、(病気とか障害があった人々)、それは、彼らが罪を犯したか、彼らの親とか祖先が犯した罪の罰を受けていると考えられてしまうのです。そうした、一般社会の偏見、宗教的偏見などすべてを、イエス様は完全否定しました。そうではない。神の前に正しい人間はいない。しかし、罪ある者にさえも、神は絶対愛を与えて下さっている。それが、イエス様の神学的立脚点だったのです。ですから、イエス様の教えは、平等であり、苦しむ者には福音だったことがわかります。
そこでこのことをわかりやすく説明するためにイエス様は無花果のたとえ話をされました。イチジクは花が咲きませんが、実は実の中が花になっているのです。イスラエルでは乾燥させて使っています。オリーブ、ブドウ、に並ぶ大切な作物です。イチジクは抗がん作用も認められています。それはともかく、このたとえ話では、ブドウ園の片隅に無花果を植えたのです。だいたいブドウ園とは神の国の象徴です。イチジクは成長も早く、株分けも簡単で、すぐに実がなります。しかし、3年たっても実がつかなかったのです。日本では、桃栗3年、柿8年といわれて、柿はなかなか実がなりません。イチジクは1年でも実がつくのに、既に3年も無駄に過ぎてしまいました。勿論、これはたとえ話ですから、イエス様は神の国に植えられた、役立たずの無花果を何かに譬えているのです。それに農園の主人とは、だいたい神様のことです。その神様が、実をつけない無花果に怒って切り倒すように命じます。これは裁きの象徴です。神の喜ぶ実を結ぶとは信仰と行いでしょう。そのままでは、切り倒されてしまう無花果に助けの手を伸ばすのは、園丁です。神の国の果樹の世話をする人です。これは、イエス様ご自身の象徴だと思います。主人に対して、今年もこのままでわたしに世話をさせてくださいと言ったのです。
この話には、書かれていない続編があると思います。翌年、実がなったのでしょうか。皆さんはどう思いますか。たぶん、次の年がきても、この無能な無花果は相変わらず実をつけないでしょう。同じ神の裁きの話が創世記18章にあります。ソドムとゴモラいう邪悪な町を神が滅ぼすとアブラハムに告げた時、アブラハムは仲介者として神に願いました。50人の正しい人がいても滅ぼすのですか。神がその人たちのために町全体を赦そうといいました。しかし、そのあと45人、30人、20人とへらし、最後には「どうぞお怒りにならないでください」といって10人の正しい人がいれば町を滅ぼさないという神の約束を得たのです。これこそが仲保者の姿であり、救い主の姿です。キリスト教は、自分で頑張って清く正しく生きる宗教ではなく、どうしょうもなく罪の沼に沈んでいる無力な罪人を救い主が無代価で助けて下さる教えです。ですから、主人の命令で実のならない無花果が切り倒されようとするときに、園丁であるイエス様が、その身を差し出して、わたしを身代わりとして裁いて下さいと申し出るのです。ここに描かれている悔い改めの実を結ばない無花果とは、我々人類のことです。その身代わりとなって、神の裁きを受けて下さったのが、救い主の十字架です。不思議なことに、実が熟した無花果の実を見ますと、実の先に十字架の形の裂け目ができています。「無花果裂けて十字架見る」という説教題はある歌人の句からの応用ですが、観察力の鋭い歌人がいるものです。イエス様は他者の欠点のためにとりなす人になりなさいと教えたのです。
使徒書の日課の第一コリント10章で、イスラエルの人々が「神の義を知らずに、自分の義を求めていた」と書かれています。これも因果応報の事です。そこで、パウロはモーセの事を語ります。旧約の日課にも創世記のアブラハムのようなモーセと神との対話がでています。特に出エジプト記32章を見ますと、神に逆らって金の子牛の偶像をつくって拝んだイスラエルの民に神が怒って滅ぼそうとすると、モーセは「主よどうしてご自分の民に怒るのですか。怒りをおさえて思い直してください」と執りなしています。モーセは120歳で生涯の旅を終えました。苦しかった砂漠での生活が40年でした。逆算すると、80歳くらいの時に神に召されたのです。82歳で亡くなったドイツの詩人ゲーテのでさえ「自分が本当に幸せだった日々は生涯にわずか20日もなかった」と語ったそうです。人生は困難です。しかし、モーセ自身もその苦難の生涯を通して「必ずあなたと共にいる」という支えの神を発見したのです。アブラハムやモーセは民の罪のための仲保者になりましたが、それは実は、新約時代のイエス様の登場を示す姿だったのです。イエス様が究極のとりなしとして、十字架にかかり、わたしたちの罪と死、そして裁きを終わらせて下さったからです。
だから、イチジクの木のたとえ話で、信仰と行いの実を結ばない木を切ってしまう神の前に、どうぞ今年もこのままにしてくださいと懇願してくださる方がいるのです。この弱い木、この実りなき木、土地をふさいでいるだけの厄介者、倒れ掛かった葦の枝、消えかかったローソク、これこそわたしたち自身です。そして、この自分のために、この自分を無条件で愛し、この自分かばってくださり、この自分の身代わりになってくださる方、救い主がいらっしゃる。これは、まさに受難節に自覚し感謝するべきことです。「無花果裂けて十字架見ゆ」わたしたちが悔い改めによって心が無花果のように裂けるときに、イエス様に愛されている人、「神共におられる」人としての自分を再発見するのです。ハレルヤ