閑話休題

吉田朔くん(3歳)の水死

吉田朔ちゃんという3歳の男の子が江戸川で溺死しました。お母さんがちょっと目を離したときに、行方が分からなくなっていたそうです。この事件が起こった、千葉県市川市の「さくら堤公園」は我が家からも遠くはなく、子供たちが小さかったときにも桜を見に連れて行ったことがあるので、人ごとのようには思えませんでした。突然の死にたいして、親の受けたショックと悲しみは計り知れません。神様からの慰めがありますように願うばかりです。ただ、亡くなられた子供さんのお名前を見て、珍しいなと思いました。ふと、若いころに憧憬を覚えた詩人、萩原朔太郎の朔という文字を思い出しました。朔太郎の詞には、孤独感や絶望感が先鋭化されたかたちで読者に突き付けられている印象を持っていました。そして、朔という文字の意味は、月の初めのことだそうです。ついたち、ということでしょうか。ただ、朔という文字には、その他にもいろいろと意味があり、「儚い」、「短い」という悪いイメージもあらわしており、名前を付けるときには注意した方がよいと言われています。朔太郎自身も、突然の病気で55歳で亡くなっています。吉田朔くんの人生も儚いものでした。聖書にも、名前にまつわる故事が書かれています。古いものは、3千年以上前のアブラハムのことです。彼は、神の導きを受けて、故郷を離れ、イスラエルの民族の父となったわけですが、若いころの名前はアブラムでした。その意味は「高められる父」ということです。その後、彼が99歳の時に神からの顕現があり、「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたはもはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(創世記17章4節以下)という天からの声を聞いたのです。ですから、アブラム(高められる父)はアブラハム(多くの国民の父)という名になりました。新約聖書にもいくつかの改名の例話があります。その中でも有名なのはパウロとペトロでしょう。若いころのパウロは、サウロ王と同じサウロという名前でした。これは「神に求める」という意味です。しかし、若いころのサウロであったパウロは、熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害していました。誤ったかたちで「神に求める」行動をしていたわけです。しかし、迫害のさなかに彼は神の顕現を受け、一時的に失明し、回心してイエス・キリストを救い主として信じてから、彼の名前はパウロに変わっていきました。「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。」(使徒言行録13章9節以下)ただ、パウロというのはヘブライ語発音のサウロを、ギリシア語発音に置き換えただけですから、意味自体が変わったわけではありません。また、12使徒の一人であったペトロの場合は、漁師であった頃の名前はシモン「神が聞きたもうた」でしたが、イエス様が彼の信仰心を認め、ペトロ「岩」という名前を与えています。つまり、彼の信仰心が教会の土台石になるということです。このように、名前には様々な意味が隠されています。吉田朔くんの場合には、残念ながらとても短く儚い生涯でしたが、偶然ながら、その名前が予告していたとおりでした。ただ、朔である、儚いということは、頼りなく消えやすい美しさを意味している言葉でもありますので、これは朔くんに限らず、原罪によって永遠の命そのものである神様から離脱してしまった、人類の姿を象徴するものでもあります。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びで、久しくとどまりたる例なし。世にある人とすみかと、またかくのごとし。」(方丈記) 朔くんを失った悲しみは、人類共通の痛みでもあります。もうすぐ、イースターですが、イエス・キリストの贖いの十字架は、すべての人類を、この悲しみから救い、永遠の命をもたらすための、命の犠牲でもありました。最後になりますが、朔くんの魂が神のもとに引き上げられ、家族の方々の心痛が少しでも慰められますように心からお祈り申し上げます。

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