一粒の麦のたとえは、イエスキリストの受難予告であったことを知る説教
「棕櫚高く受難の日」 ルカ19:28-48
災難は偶然です。受難と言うのは自分から困難を受け取る意味です。イエス様は、逃げれば逃げられたのに、無駄のように見えますが、この世の贖罪の働きのために十字架の処刑を選ばれたのです。イエス様が自分で選んだ道は愛の道だったと思います。自分が犠牲になって他の人を救うというのは、まさに愛なのです。
そのイエス様の姿は一生涯にわたって低いものでした。生まれた時にも、マリアさんには泊る場所がなく馬小屋に泊り、赤ちゃんは飼葉おけの中に置かれたというのです。そのイエス様は、エルサレムで十字架にかかる前に、子ロバに乗っていきました。馬というのは戦闘用であり高貴な地位のしるしでしたが、ロバは平和のしるし、低い謙虚さのしるしでした。それはゼカリア書の預言に従ったものです。そこに「このお方は、柔和であって子ロバに乗ってきます」、と書いてあります。ロバは小型で馬ほど早くもありません。日本は世界でも珍しくロバが定着しなかった国です。今でも数百頭しかいないようです。何故なのかと考えてみると、それは能率性を第一に考える日本人の考え方に合わないからでしょう。けれども聖書の世界は違います。長い間、砂漠をさ迷って無駄とも言える時間を過ごしたユダヤ民族にはラクダもロバも大切でした。ちなみにロバの原産地はアフリカの砂漠地帯です。ロバは環境適応能力が高く、長期間の食糧不足にも平気で、どんな草でも食べ、その95パーセントを消化して栄養分として吸収できるそうです。
また、ゼカリア書「このお方は、国々の民に平和を告げます」とも書いてあります。ですから、贖罪のキーワードは低い姿、柔和な姿、平和の実現という事です。これは偶然ではないでしょう。反対の面を考えてみましょう。高い姿勢、高飛車な姿、争いというのがこの世の問題です。贖罪と言うと分かりにくいですが、イエス様の十字架は、神から離れたこの世の問題に平和的な解決をもたらしたと言えるでしょう。ロバも鳩と並んでまさに平和の象徴です。そして、このロバの準備もイエス様の言葉に従ってうまくいきました。弟子たちは自分たちで考え出したのではなく、イエス様の指示に従ったらうまく運んだのです。わたしたちの人生でも、イエス様は必ず指示を与えてくださいます。わたしたちは聞いて従うだけで良いのです。
聖書には何回かイエス様が大声で泣いたという記事がでてきます。ラザロが死んだ時もそうでした。今日の個所もそれです。悲惨な将来を知らないことです。今日は枝の主日、棕櫚主日とも言われる特別な日です。人々椰子の葉のようなものを敷き、服を道に敷いて。彼らが間違って「王様」と思っていたイエス様をエルサレムにお迎えしたからです。まさに、服を敷くのは、王の即位のしるしでした。(列王下9:13)当時の人々の心境を推察して見ると、国はいくつかの部分に分割されており、ローマ帝国から送られた総督ポンテオ・ピラトが実権を握っていました。彼の本名はポンティウス・ピラトゥースでした。10年ほどの任期でした。彼は神殿税を使って水道工事を強行しようとして反対者との衝突があって死傷者を出しています。また、エルサレムにローマ皇帝の像を建てようとして反発をうけたこともありました。サマリアでは、モーセの遺品が見つかったという噂で集まった住民を反乱とみなして、殺傷したことで上司のシリア総督によって更迭されています。ですから、人々がイエス様を誤解し、ローマの支配から解放する王様として考えたのも無理はありません。イエス様の贖罪も解放でしたが、政治ではなく罪からの解放でした。
オリーブ山からエルサレムの神殿までの道を下った時にイエス様は大群衆に歓迎されました。そのとき、イエス様は大声で泣いたのです。不思議です。エルサレムは平和の道を知らない。柔和であることを知らない。つまり、神、神と言いながら、本当の神から離れていることを残念に思われたのでしょう。やがて戦争でこの美しい都市も瓦礫の山になることをイエス様は予知され、悲しまれたのでしょう。神殿は本当に約40年後に破壊されてしまったのです。それを、イエス様は神の時を知らない人々を憐れんだのです。
壊れてしまう神殿は、もしかしたらわたしたちの姿です。わたしたちの罪です。わたしたちも神の時を知らないことがあるからです。
エルサレムの悲劇に泪を流した後、イエス様は神殿に入り、その中の商売に反対しました。お金で贖罪を買い取ることの無意味です。イエスさまの行ったことは、とても過激な行動でした。神殿が本来は商売の場所ではなく、祈りの場所だと教えたのです。贖罪を買うのではなくお赦しくださいと祈るだけです。しかし、伝統を重んじる、指導者たちはイエス様の排除計画を相談しました。彼らの心を支配していたのは愛でなく金銭とか権力でした。イエス様は愛によって宮清めを行い、愛によってこの世の罪の贖いのために十字架に仕えました。今日の使徒書の日課であるフィリピ書2:7以下にも「キリストは自分を無にして、へりくだり、十字架の死にいたるまで従順でした」と書いてあう通りです。これが贖罪です。
イエス様は、自分を無にして、へりくだり、十字架の死にいたるまで従順で、高ぶった誇りや人間の規則が意味がないことを示したのです。高い姿の王でなく低い姿の王様だったのです。だから馬に乗らずにロバに乗ったのです。ロバは贖罪のしるしです。
わたしたちが平和に生きるとき、神と共に生きるのは、ロバに乗る人生でしょう。アブラハムが息子のイサクをロバにのせて犠牲とするために黙々と進んだように、早くない人生、かっこよくない人生、力がない人生。神に従うだけの人生、泣きながらの人生がロバに乗る人生です。でも、アブラハムは祝福されました。「いま泣いている人はさいわいである」これもイエス様の口癖です。低められてこそ、全てを手放してこそ、一杯の水にも、一回の健康な呼吸にも喜ぶことができるのです。ロバに乗る人は平和の使者です。イエス様の本当の弟子です。ロバの低さの極限は十字架でした。実はそれが愛であり、真実の神でした。愛は無駄ばかりです。愛とは実に非効率的なものです。愛とは無駄です。神の作られた自然界は無駄で満ちています。魚も鮭一匹で3千から4千です。それがすべて魚になれば、3年後には、270億匹です。実際は少ないものです。多くの卵が無駄になっていると思われます。「神は独り子イエス・キリストを世に遣わされた」捨てられ無駄になった石として。ロバに乗せられた贖罪の犠牲として、イエス様はロバに乗られ、昔のシオンの山に向かったイサクのように、エルサレムに向かいました。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)無駄になるロバに乗った人生、しかし、それは愛されている人生です。「棕櫚高く受難の日」 それは、神さまの壮大な無駄、不条理とも言える十字架の犠牲の贖罪、それは愛の救いのご計画だったのです。