菊川ルーテル教会でのイースター説教
「見た信じた行った」 ヨハネ20:1-18
今から37年くらい前のことです。わたしは、ルーテル世界連盟の研修プログラムで、ユダヤ教の研究のためにエルサレムに半年くらい留学しました。そして、エルサレムでイースターを迎えることができた数少ない牧師の一人です(クリスマスとかイースターには牧師は教会から離れることは困難)。さらにすごいのは、一年にユダヤ教の過越祭とイースターの二回を経験したことです、聖書の中にサマリア人の例話が出てきます。あれは、エルサレムとイエス様の故郷であったナザレの間にあるサマリア地方に住んでいた人々んことです。ユダヤ人はサマリア人を差別していましたが、サマリア人ももともとはアブラハムの子孫であって、ユダヤ人と同じです。しかし、サマリア人はエルサレム神殿を無視して、サマリアのゲリジム山で礼拝を続けていました。わたしが、サマリアの過越祭のお祝いに参加したのは、このゲリジム山でのことでした。彼らの儀式は野外でしたが、大きな穴をいくつも地面に開けて、そこでオリーブの枯れ木を燃やします。あれは脂分が多いですから、ロケットの噴射口のように、ゴーゴーと火柱がいくつも立ちます。そこにとさつしたばかりの羊を丸ごと焼きます。その煙が、神様に捧げる香りとなるわけです。学校の運動場くらいの広い場所ですが、そこ全体が、訳肉店のようになります。それが、サマリア人のイースター(過ぎ越しの祭り)でした。さて、エルサレムにはユダヤ人もたくさんいますが、教会もたくさんあります。ですから、イースターは土曜日の夜から、徹夜礼拝(ヴィジル)で始まります。わたしは、エルサエムに住んでいましたので、ヴィジルから参加しました。それも、いくつもの教会の礼拝に出ることができました。特に記憶に残っているのは、アルメニア正教会の礼拝でした。礼拝後にお茶の会があるのですが、そこにアルメニア教会の大主教がいました。すぐ隣に立ってお茶を飲んでいたので挨拶をしました。彼はわたしが日本から来たと聞いて祝福してくれたのですが、その式服には様々な宝石が縫い込まれていてキラキラ輝いていました。このようにして、いろいろな教会をまわっていたら、ついに朝を過ぎて昼の12時になってしまいました。つまり、夜の12時から昼の12時まで、12時間もいろいろな教会のイースター行事に出ていたわけです。おそらく、今日もイスラエルではイースターが盛大に祝われていることでしょう。
さて、約2千年前のイースターでは、イエス様の復活の最初の目撃者は、マグダラのマリアでした。イエス様の母親もマリアでした。マリアと言うのはギリシア語で、英語ではマリーです。ところが元々は、モーセの姉のミリアムと言う人がいて、このヘブライ語のミリアムがマリアになったわけです。アメリカ人でもミリアムという名前の人がいます。それはともかく、ミリアムはユダヤ人の中では親しまれた名前です。特に名字がなかったので、出身地の名前をいれて、マグダラ(ガリラヤ湖北西)のマリア(ミリアム)としたのです。彼女はイエス様に7つの悪霊を追い出してらった人です。改心した売春婦とも伝えられて。イエス様には12人の使徒がいました、彼らは男性でした。2千年前は男性上位の社会でした。しかし彼らが一番先にイエス様の復活を目撃したのではありません。女性の弟子たちもいたと思います。しかし、そのなかの立派な人が最初に復活を目撃したのではありません。こともあろうに、もとは売春婦で、汚れた者、罪の女と呼ばれたマグダラのマリア(ミリアム)が最初に目撃したひとになったのです。聖書は、人を職業で差別しませんね。むしろ、後の者が先になると書いてある通り、人間的には最もふさわしくない者が、神によってふさわしい者として選ばれるということを聖書はいつも教えています。
マグダラのマリアが最初に見たのは横穴式の墓の石が取り除けてあったことです。まだ、イエス様そのものを見たわけではありません。そして、ほかの弟子たちに報告しました。その後、マグダラのマリアはもう一度、墓に戻って、泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が見えました。天使たちと話している誰かが立っているのが見えた。しかし、誰だかはわからなかった。墓の番人だと思っていたわけです。しかし、会話の中で、それがイエス様だとわかった。洞窟でしたし、朝まだ暗いうちだから見分けがつかなかったのですね。そこで、イエス様がマリアと呼ぶと、ラボニ(先生)と答えてしまった。これはユダヤ教の教師のことがヘブライ語でラビですから、それに「私の」という意味の接尾語のニがついて、ラビニ、音を調和させてラボニと言ったわけです。つまり、わたしのラビ様ということです。
イエス様は正式のラビではなく、前職は大工さんでしたがマグダラのマリアはイエス様の事をラビとして尊敬していたことがわかります。神は自分のような罪人を愛してくださっておられるというイエス様の教えを、心から信じていたのです。そして、十字架にかけられて三日後に復活するというイエス様の預言も信じていました。見えないものを信じる信仰をマリアは既に持っていました。わたしたちも、この信仰を神様から与えられると、困難に負けない人になります。例えば、信仰のない人は、冬に寒くて死にそうだとしか言えません。信仰のある人は、今はどんなに寒くても、必ず春が来ると知っています。信仰のない人は、同じように、回復できない病気になると、自分は不幸だと思って絶望します。信仰のある人は、イエス様が復活されたように、死の後には復活があると信じています。
ですから、しっかりした信仰心のあったマグダラのマリアは、復活の喜ばしい出来事を人々に伝えたのです。
旧約聖書のイザヤ書には、主なる神が全ての顔から涙をぬぐい、民の恥を地上から消して下さる、つまり罪の汚れを清めて下さるということが語られています。思えば、人生には悲しいことが少なくないものです。生別があり死別があり、喪失があります。今までいた人がいなくなり、大切にしていた存在がなくなることは、特にその対象が心の支えになっていればいるほど辛く悲しいものです。誰にでも何かしら、心の支えになっているものがあるはずです。それは子供であったり、親であったり、自分自身であったりするわけです。それを失うことは辛く苦しいことです。
ところが、神様が涙を消して下さるわけです。どんな方法でしょうか。それは、今まで自分が頼っていたこの世の支え以上の大きな支えが現れるということではないでしょうか。それは復活のことを示しています。マグダラのマリアが見て信じて行って、実際に見て、伝えに行ったのは、まさにこの悲しみから喜びへの転換でした。わたしたちも同じです。今日のイースターに、聖書に触れなければ今までと同じです。けれども、教会に行って、礼拝を見て信じ、帰って行って新しい人生になるのです。
おそらくイエス様に出会う前の彼女の生活にはそれほど大きな喜びはなかったでしょう。ドイツの文豪ゲーテも、「自分の人生に本当に幸せだった日々は20日に満たない」と言っていたそうです。わたしたちも同じです。友達のカナダ人の先生は、子供の時に4回しか親に映画に連れて行ってもらえなかったと言っていました。
涙なしには生きることができない人生は古い形の人生です。それは、罪のしばりがある人生であって、誰にでもあることです。神はそれを終わらせ、死という離別、死という破壊、死という無力、これを終わらせて下さるということが、イエス様の復活において起こったのです。ただの再生ではなく、死とか別離の終わりなのです。
マリアは、悲しみのどん底で復活されたイエス様に出会いました。復活とは、目の前にあるのに見えなかったものが、聖霊の働きによって、見えるものとなることです。見えなかったけど、今は見える。これが聖書の信仰です。その理由は、罪によって曇っている肉的な目から、澄み切った霊的な目に変わったからです。生まれ変とも言います。それは、信仰によって生まれ変わったのです。
見えないものを信じる信仰を与えられたのが復活の大きな意義です。「キリストが復活しなかったのなら、宣教は無駄、信仰も無駄で、空しく、クリスチャンはすべての人の中で最もみじめな人々」(第一コリント15:19)だと書いてあります。
こんな話があります。外国のある町に自分の不幸を嘆く女性が住んでいました。その女性は最近、頼りにしていた親を失い、続けて主人を失い、最後に頼りにしていた一人息子を失ったそうです。彼女は毎日家に引きこもって泣き暮らしていました。そこに、信仰深い人が訪ねてきました。女性は言いました。「わたしには、親も夫も、子供もいない。わたしはどうしたら良いのだろう。」信仰深い人は言いました。「働きなさい。」周囲の人は驚きました。こんなに悲しんでいる人を慰めもせず、働けと言うとは、なんて残酷な心の冷たい人だろう。しかし、信仰深い人はもう一度「働きなさい」と言い、「死んでいるのは、親でも夫でも、息子でもなく、あなた自身だ。泣くのをやめて、働きなさい。そして生きた人になりなさい」、そのように付け加えたそうです。
復活されたイエス様は、悲しみと涙に暮れるマグダラのマリヤに「なぜ泣いているのか」と尋ねました。そして、姿を見えるようにしました。それはつまり、マグダラのマリヤ自身が死んでいたのです。そして彼女は死の世界、つまり喜びのない世界から信仰によって、神の世界、愛と光の世界に移ったことなのです。神の愛と、神の復活の生命を知ったマグダラのマリアは行って、復活を伝える第一の者とされたのです。それが、今朝わたしたちにも語られている福音です。あなた方は、見た信じて、行って福音を伝えなさい。
イエス様の復活はそれを証明しました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)イエス様を救い主と信じるだけでいいのです。