コロナ禍で四苦八苦する人への救いの福音
四苦八苦という言葉は、日常会話では非常に苦労するという意味でもありますが、元来は仏教用語です。キリスト教は苦しみの原因である原罪に着目しますが、仏教は苦しみ自体の詳しい分析に着目します。大局的に見れば、両者は「原因と結果」を扱っていることになるでしょう。わたしたちには、見えない原因よりも、目の前に置かれた「四苦八苦」のような具体例の方が理解しやすいと思います。ですから、一般の人が考えた場合には、仏教の教えの方がなじみやすいに違いありません。そうだとしても、「四苦八苦」の中には仏教の基本思想が詰め込まれていますので、そこには、とても苦労するという意味以上の事柄があらわされています。第一に、四苦を見てみましょう。これは、生・病・老・死を表しています。そして、四苦八苦の残りの四つは、愛別離苦(愛する者との別れの苦しみ)、怨憎会苦(恨んだり憎んだりする者との出会いの苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(身体の苦しみ)などです。コロナ禍でなくても、人間の生活においては、こうした八つの苦しみは避けることができません。仏教では、そうした苦しみを超越して、悟りに達するように教えます。得度ということでしょう。つまり、執着を離れて行雲流水のような姿勢をとるのです。わたしも、高校生のころには臨済宗のお寺に座禅にいっていたものですから、行雲流水を生活の指針とした雲水の人々の姿に敬意を持ったことでした。しかし、それはどんな人でもできる業ではありません。どうしても、執着を離れきれずに、悩んでしまうのが人の情ではないでしょうか。一方で、キリスト教では、全く違う解決方法を示しています。最初の四苦にたいしては、「永遠の命」が与えられると教えています。確かに、人間は命に限りがあるのに、そこに執着するから悩みが生まれるわけです。しかし、ひとたび、「永遠の命」が与えられたと自覚するなら、悩みは消えます。悩む必要がなくなるからです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになった、イエス・キリストをしることです。」(ヨハネ福音書17章3節)難しい説明は省きますが、天地創造の神の絶対愛と、この神の愛の使者イエス・キリストを知るだけで、悩みをもたらす元凶である原罪から解放されるということが聖書には書かれています。つまり、千日業などの困難な修行ができない人でも、悟ることが可能なのです。次に、八苦を形成する残りの四苦ですが、これも厄介なものです。悲しみとか、体の痛み、いじめやハラスメントのような精神的な圧迫、そして無力感や喪失感は耐えがたいものです。一例としては、ユダヤ人強制収容所に入れられた経験を持つフランクルという心理学者が、こうした苦しみについて書いています。彼の周囲にいた多くのユダヤ人たちは、連合軍によって解放される以前に、あまりの苦しさに希望を失って死んでいきました。しかし、いつか必ず解放される、という希望を捨てなかった者だけが生き残ったと、彼は書いています。コロナによって、人類全体は、まるで強制収容所に入れられた人々のように、自由と権利を失った生活を強要されてきました。そのなかでの救いは、フランクルが述べたように、「希望を失わない」ことではないでしょうか。多くの試練を乗り越えて伝道を続けたパウロがこのことについて書いています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にみちあふれさせてくださるように。」(ローマ信徒への手紙15章13節)つまり、パウロは、希望というわたしたちの意識の根底にある神の存在を直観していたのです。つまり、彼は周囲の環境に眼を奪われず、自分自身の内面を直視していたから、これが分かったのでしょう。内観ともいえるでしょう。ですから、フランクルが収容所で体験した過酷な事実においては、神を見失ったものは死の道を歩み、心の中にある神ご自身でもある希望を失わなかったものは、生き抜くことができたのです。コロナ禍で苦しむ人に、神の存在を説いて理解してもらえないでしょうが、希望を捨てないことが大切なことは伝えられると思います。キリスト教の伝道に関しても同じです。やはり希望です。希望を説かないキリスト教は、単なる人間的な宗教団体に過ぎません。さて、最初に述べたように、疫病とかがない場合にも、人生には様々な四苦八苦が避けられませんが、神の絶対愛と永遠の命、そして希望を捨てないときに、暗闇のトンネルは必ず抜けられるものです。きょうは、そのことを知っていただきたく思ってこの文を書きました。この記事を読んでくださっている皆さんの周囲に、もし四苦八苦している方がいらしたら、ぜひその解決策であるこの聖書の福音をお伝えし、励ましていただきたいと願っています。自分で伝えるのが苦手な人は、このページをプリントして手渡すだけでいいと思います。