日本の公文書研究者、有馬哲夫氏
有馬哲夫氏が書いたNHKの「公共放送」受信料の問題性に関する小論を読んで、日本にもこんな学者がいたんだと、驚きました。外国の学者は、自らが信じるところに従って持論を展開している場合が多いですが、日本ではそうではありません。流行語にもなった「忖度」がいまだに根強く残っています。その点において、有馬哲夫氏は権威者や資本家、政治家などへの「忖度」なしに、事実を淡々と述べているので、感心しました。そして、彼の研究分野である公文書とは、まさに現代史研究の最先端ではないでしょうか。日本では、著名な事件の貴重な公文書が紛失したり、書き換えられたりすることが日常的に起こっています。そうしたことの、原因と結果を究明することは、民主的な社会の維持に不可欠だと思いました。有馬氏の名前からは、昔の有名な伝道者であった中田重治の娘、有馬リリ(青森)の子孫なのかなと思ったりしました。それはそうと、聖書もいわば古代の公文書でもあります。聖書を読んだことのない人は、宗教書だと思っていることでしょう。しかし、聖書を編纂したユダヤ人たちは、記述内容に私情がはさまれたり、忖度によって改変されることを極端に恐れていました。彼らにとって、記述された言葉は、神から授与されたものであって、人間の都合によって勝手に改変してはいけないものなのです。この傾向は旧約聖書に顕著ですが、新約聖書にも当時の人々の言葉に対する意識がハッキリ書かれています。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書1章1節)そして、旧約聖書の中で、神から与えられた言葉の普遍性を死守したのは預言者たちでした。ダビデ王の過ちを指摘した預言者ナタンもそうでした。「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。」(サムエル記下12章1節)ナタンは、王であるダビデに対して、忖度なしに彼の犯した悪事を告発したのです。そして、この出来事の記録を、聖書は公文書としてそのまま残しています。わたしたちの社会でも、有馬哲夫氏のような学者が社会で認められるようになってきたことはうれしいことです。残念ながら、教会の人事の内容などは一部の関係者しか知っておらす、公文書として残されてもいませんし、公開されてもいません。これでは、いくら伝道計画や資金計画があっても、伝道の推進はむずかしいでしょう。神学が虚構のものとならないためにも、若い牧師は、教会の公文書を神学的見地から検証してほしいものです。地図が、人間の脳内の意識構造を投射しているように、社会の公文書や、教会の公文書はその組織をになっている人々の頭脳の中身を投射しているからです。聖書的な思考では、組織や権力に対する忖度は、人を神としてあがめる偶像礼拝に通じるものがあるのです。伝道を阻害するものは、資金でも計画でもなく、人間思考や人間計画を第一とする偶像主義です。旧約聖書の時代のように、神の真実(光、命、愛)を判断基準の根底とする覚者が登場することを願っています。その面では、有馬哲夫氏の見解に学ぶことが多くありました。