一泊400万円もする外資系の超高級ホテルが都内に進出しているそうです。一方で、一日三度の食事もとれない子供たちがいる超貧困家庭も増加しています。この矛盾に気付き、そうした貧富の差を指摘する識者も多くはないようです。これは、資本主義社会の弊害ともいえるでしょう。資本主義といわなくても、貨幣経済の問題でもあります。貨幣制度がある限り、資産を持っている者は、その資産を活用することで、働かなくても収入が得られる仕組みがあるわけです。わたしの親戚にもいます。バブル期に新宿にあった、アパートの借地権が4億円で売れました。そこで、家を郊外に建て、埼玉県の私鉄沿線の駅近くに大きなアパートを建てました。以来、その収入で暮らしています。その家の人は、今まで労働したことはないそうです。これは小さな例に過ぎません。貨幣経済社会では、何兆円という金が利殖に用いられているわけです。こうした弊害は、2千年前にもありました。イエス・キリストは、つねに貧しい人の側に立ち、利己的な人間の習性(原罪に起因するもの)を批判しました。新約聖書の中でも、常に弱者の立場を擁護した記事をのせているルカ福音書だけです。その記事の小題には「金持ちとラザロ」と書かれています。このように書かれています。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブアハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまされながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとがはるかかなたに見えた。そこで大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。』」(ルカ福音書16章19節以下)しかし、天からの声があって、地上で苦しんでいたものは慰められ、他者の苦しみを無視して享楽にふけっていたものは処罰されることが告げられたのです。これは、イエス様の譬えですが、それは「金に執着するファリサイ派の人々」に向けられたものです。超高級ホテルと超貧困家庭の矛盾の原型のようなものは、既に2千年前にもあったのですね。マルクスは、この問題点を経済学的に究明して、共産主義を提唱しました。しかし、人間の心に内在する原罪のゆえに、理想郷は実現せず、恐ろしい独裁国家ができあがってしまいました。社会制度を変革するだけで、人間が聖霊によって生まれ変わらない限り、この矛盾は永続します。だから、いつの世でも、悔い改めと新生の福音は必要なのです。わたしたちの多くは、天罰をうける金持ちのような富裕者ではないでしょう。しかし、そうした矛盾が山積している社会を容認していること自体が問題なのです。問題点を指摘する人が少しでも多く登場し、健全で公平な社会となるように祈り求めたいものです。