今週の説教

弟子たちが試練を恐れない人々となった理由

「鍵を砕く」            ヨハネ20:19-23

今日の日課を見ますと、イエス様が十字架にかけられた後、弟子たちは自分たちも迫害されることを恐れてドアに鍵をかけていました。これは人によってまちまちです。入り口から入ったらすぐに鍵をかける人もいます。別の例としては、千葉県松戸市の知人の造園業の家では、敷地も広くて、何棟かある家屋には鍵を掛けてありませんでした。昔ながらの習慣なのだと思います。ところで、鍵というのは色々な部分に使われています。身近なのは自転車の鍵でしょう。うっかり鍵をかけ忘れると自転車の盗難にあいます。鍵というのは必要ですが、鍵の必要性の背景には、財産や生命の危険があるということではないでしょうか。あの松戸の造園業の家では、財産は植木ですから、その盗難のおそれはなかったものと思われます(笑)。

さて、弟子たちは生命の危険を覚えてドアに鍵をかけていました。2千年も前の社会では、たぶん日本の田舎での生活のように、鍵をかけないのが普通だったのでしょう。弟子たちのとった対策は、たぶん普通ではないから、わざわざ「鍵をかけていた」と書いてあるのでしょう。それに、奇妙なことに、「ユダヤ人を恐れて」とあります。これもおかしなことです。弟子たちはガリラヤ地方の出身でしたが、人種的にはユダヤ人です。ユダヤ人がユダヤ人を恐れるというのもおかしな話です。どういう意味なんでしょうか。考えてみますと、このヨハネ福音者が書かれたのは、イエス様の時代より50年以上もあとのことですから、ユダヤ戦争でイスラエルの国家は滅び、教会と伝道の中心はユダヤ人ではなく異邦人に移っていたという状況があります。そのために、ユダヤ人がまるで迫害者のように描かれていると考えられます。こうした記述が、後には、ユダヤ人迫害の遠因となったとも考えられます。それはともかく、弟子たちに財産はなかったでしょうから、生命の危険を覚えてドアに鍵をかけていたのは確かでしょう。それもドアはギリシア語では複数形で書かれていますから、すべてのドアに鍵が厳重にかけられていたということが示されています。

そうした恐れに支配されていた弟子たちに、安心感を与えたのは、復活されたイエス様の挨拶でした。それは、十字架にかけらえる前のイエス様の挨拶と同じ形だったと考える学者がいます。イエス様は、弟子たちを宣教に派遣する際にも、「この家に平和があるように」(ルカ10:8)と言うように命じています。この平和とは、ギリシア語でエイレネーであり、ヘブライ語のシャロームと同じだと考えてよいでしょう。ですから、聖書では恐れの反対は安心ではなく、シャロームであり、これは「ありのままの姿」という意味の言葉なのです。あなたがたは、あなたがたの、ありのままの弱さをもっていてもよいのだよ、ということです。ドアに鍵がかかっていなくて、迫害者が侵入し、殺されることがあっても、それを恐れる必要がないということです。つまり、死と恐れが克服された、原罪が取り除かれたということです。これこそ、真の意味のシャロームです。

また、復活されたイエス様にとっては、ドアのカギは無用でした。鍵という存在こそ、人間が自分自身で、生命や財産喪失から自分を守ろうとする防衛手段であり、これも原罪の結果です。日本では、素手で真剣白刃取りをして、身を守ることができた剣道の達人のことが記録にありますが、これは戦わずして勝つことなのではないでしょうか。弟子たちも、ここで守らずして守られることを学ばなければなりませんでした。しかし、この経験によって、弟子たちは恐れを持たない人々に変えられていきました。

復活されたイエス様を見て、弟子たちは大いに喜びました。基本的に、聖書は喜びの福音を伝えています。それも、試練のない喜びではなく、まさに試練のなかで、救い主がその試練を乗り越えさせてくださる喜びの実体験を伝えているのです。わたし自身もこうした体験によって信仰を確かなものにさせていただきました。ある著名な牧師さんが、イースターの時に偶然に聖霊に満たされ、「よかったよかった」と言いながら、2階の書斎から降りてきたら、奥さんが台所で同じようにが、「よかったよかった」と言っていて、とても驚いたということが、ある本に書いてありました。まさに、こうした喜びのニュースが福音であるわけです。それも、ありのままの状態を喜んでいるのです。

さて、イエス様のあいさつの後で、イエス様は、弟子たちを福音伝道に派遣しています。そして、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなた方が赦せばその罪は赦される」と命じています。これはまさに贖罪の宣言です。贖罪というのは、勿論、原罪からの解放ですが、それはイエス様が十字架によってわたしたちの身代わりの犠牲となって罪を贖ってくださり、救いを完成されたということです。この贖罪の救いとは、アダムとイブの原罪によって死と苦しみが人類に及ぶ前の、エデンの園の中のように、楽しく、幸せで、思い煩いもなく、怖れもなく、苦しみもない生活に戻していただくことです。十字架の贖罪は死からの解放ですから、十字架の贖罪を信じていない場合には恐れ、生命の危険が感じられるでしょう。この説教を読んでくださる方々で、心のドアに鍵がかかっておらす、死でも事故でも、コロナでも恐ろしくないという人がいらしたら、それは既に贖罪の体験を与える信仰を持っておられるということです。しかし、それが、まだそうではないという方もおられるでしょう。長い間教会生活を送っていても、睡眠薬がないと眠れないという方もおられるでしょう。そういう方も、贖罪を信じ、死を覚悟して、眠らないようにしようとすれば、かえって眠ってしまうものです。恐れが、防衛本能を触発し、鍵が必要だと強制するわけです。ですから、福音の信じる生き方とは、鍵のない生き方です。防衛しない無手勝流の生き方です。イエス様もそのように教えておられます。

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。」(ルカ福音書6章29節以下)

おそらく、この経験の後も弟子たちを囲む状況は改善されなかったでしょう。彼らを憎むユダヤ人たちは、まだ存在したでしょう。神がユダヤ戦争で彼らを滅ぼしたのが紀元70年でしたが、それまでは、40年近く迫害されたわけです。また、ヨハネ福音書が書かれた後も、ローマ帝国内で異民族からの迫害は続き、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認する紀元313年まで迫害は数百年続いたのです。でも、彼らにはイエス様が与えて下さった「平和」、つまり「ありのままの救い」、罪あるものが救われるという確信がありました。それだけでなく、弟子たちの派遣は、十字架の結果である「贖罪権の行使」という、「鍵の権能」といわれるものでした。今までの人間の鍵ではなく、恐れから解放する神の鍵です。

この鍵の権能についてはルーテル教会信条の「アウグスブルク信仰告白」(1530年)の最後の項目に詳しく書いてあります。つまり、鍵の権能とは福音を説教し聖礼典を執行することであり、過去のローマ教会が行っていたような、いろいろな儀式や規則、また社会行政の支配ではないということです。そしてこの信条の、最後の部分で「われわれは人に従うより、神に従う」(使徒5:29)という言葉が引用され、当時のローマ教会の支配権を否定するものではないが、福音を純粋に伝える自由を求めています。

この「われわれは人に従うより、神に従う」(使徒5:29)という言葉は、初代教会の伝道には重要な言葉であり、逮捕されて牢屋にいれられたペトロやほかの使徒たちは、天使に助け出された後、人間による拘束を恐れずに、再び神殿の境内でイエス様の福音を伝えていたのです。そこで彼らを再び逮捕して最高法院で裁判にかけたのですが、ペトロやほかの使徒たちは死を恐れず、自分たちに与えられた聖霊を証しして、「われわれは人に従うより、神に従う」と宣言することができたのです。それを聞いた権力者たちは激しく怒り、ペトロやほかの使徒を殺そうとしました。しかし、議会の中で尊敬を受けている人が言いました。「あの計画や行動が人間から出たものならば、自滅するだろうし、神から出たものであるならば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない。」そこで人々はペトロやほかの使徒たちを釈放したのです。今から500年前の宗教改革の運動が滅びなかったのも、それが神から出たものだと証明されたのだと思います。ですから、神に従うとは、イエス様の時代の権力者、宗教改革の時代のローマ法王、とは違って、憎しみではなく愛と赦しに従うということなのです。それが、この世の恐れという鍵を廃棄させる神の福音の鍵なのです。今年もお祝いしたイースターの意味はここにあります。

弟子たちが恐れていたのは、迫害を受けて自分たちも処刑されてしまうことでした。復活の体験なしには、心は恐れに支配されています。しかし、主はそのような彼らの不信仰を非難せず に、ただ「平安があるように」(シャローム)つまり「ありのままでよい」と言われました。そして、彼らにご自分の手とわき腹 を示されました。それは、主が彼らの弱さ、不信仰、罪と死から解放するために十字架の苦しみを受けたことをはっきりと分からせるためでした。ですが、聖書的には、わたしたちは弱くてよい。罪と死があってもよいとされます。イエス様が、わたしたちの為に命を手放し、贖罪する鍵の権威を持った方として来てくださったからです。そして今もシャロームと語りかけて下さるのです。

 

 

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