今週の説教

菊川ルーテル教会での説教「後世への最大遺産」

「後世への最大遺産」    ヨハネ14:1-14    2023 5 7

今日の説教題は、内村鑑三の「後世への最大遺物」にならってつけました。遺物とは遺産のことです。さて、イエス様は何を残したのでしょうか。イエス様はソロモン王のように大神殿を作りませんでした。巨大なピラミッドも造りませんでした。イエス様は十字架にかけられただけで何も残していないように見えます。しかし、イエス様の残したものは建物でも財宝でもなく、弟子たちでした。その弟子たち育てた方法が、今日の聖書個所です。わたしたちが、自分が後世に残すものについて考えるときに大変に参考になる部分です。ちなみに、内村先生は、「後世への最大遺物」という講演の中で、後世に残す金、事業、思想について書いています。

さて、十字架にかけられる前に、イエス様は弟子のペトロが逃げ去ることを預言しました。それにもかかわらず、弟子たちへの姿勢には変わりがありませんでした。その姿勢は二つの点があります。教えと励ましでした。これは学校でも家庭でも教会でも大切です。いくら優しく接しても、可愛がっても、教えがなければ無意味です。逆に、どんなに立派な教えがあっても。愛と励ましがなければ人は育ちません。わたしたちは相手の態度によって自分の態度を変化させやすいものです。しかし、イエス様の愛は、無条件の愛でしたから変わることがありませんでした。イエス様の言葉に、「神は善人にも悪人にも太陽の光を与えてくださる」(マタイ5:45)と書いてある通りです。

今日の個所は、弟子たちだけに与えた教えですが、その第一として、心を騒がせないで信じることの大切さが語られています。心を騒がせるとは、ギリシア語の原語では「心を分裂させる」という意味です。つまり、ある時には神の言葉を信じたり、ある時には人間の意見を信じたりすることです。心が分裂するのが、「心を騒がせる」という意味です。これは誰の生活にも起こりやすいことです。

だいぶ昔のことですが、ある人が横浜のキリスト教伝道集会に自動車でいきました。そして、どんなことがあっても「心を騒がせてはいけない」ということを学びました。夕方になって、集会が終わり、自動車で家に帰りましたが、なんと途中の砂利道でタイヤがパンクし、またタイヤを留めておくナットも外れてしまったのです。タイヤを替えようとしたら、なんと車を持ち上げるジャッキがありません。今のように携帯電話もない時代ですから、修理を呼ぶこともできません。どうしよう。その人は、伝道集会で習ったことを思い出しました。そうだ、今の自分がまさに「心を騒がして」いるのだ。そこで、神に問いました。「神様どうしたらいいのでしょう。」すると、答えがありました。その人はどうしたと思いますか。車が上がらないならタイヤの位置を下げればいいと神様に示されたのです。上がらなかったら、下げろです。車の工具でタイヤの下の砂利道を掘りました。これで交換できます。ただ、タイヤを留めてあったナットが衝撃で吹っ飛んでしまってナカッタ(ナット)のです(笑)。彼はまた少し心を騒がせそうになりましたが、再び心を神に向けました。すると答えがありました。そして、無事にタイヤをつけて家に帰ることができたのです。彼がどうしたと思いますか。車には4本タイヤがあります。各タイヤにはタイヤを留めるナットが5個ついています。各タイヤから一つずつ取ってパンクしたタイヤを留めたのです。

さて、今日の日課の2節で、イエス様は心が分裂し「心を騒がして」思い悩んでいた弟子たちの心を父なる神に向けさせます。イエス様は初めて父なる神の家に行く者が不安にならないように、まず自分が先にいって部屋を準備してきて、迎えに来て下さると言ったのです。これは死に関することですね。死んでも平気だよと言っていた人が、どれほどあたふたするかを、わたしは仕事柄、たくさん見てきました。人間には原罪がありますから、生死の境に立つと、心の奥底にあるものが噴出してくるのです。救いが確定していないと、山梨県の恵林寺の快川和尚が織田信長の軍に火攻めにされたときに「心頭を滅却すれば火もまた涼し」といったようには、なれないのです。逆に、郷ひろみの「アチチ、アチチ」になってしまいます(笑)。

さて、4節以下の「道」とはイエス様ご自身のことです。イエス様は、「わたしは道である」(ヨハネ福音書14:6)と語っています。神への道はイエス様しかないと教えるのが、本当に正しい教理です。今日の讃美歌449番「千歳の岩よ」を作詞したトップラディーという人は牧師でしたが、福音的な神学に詳しい人でした。だから、「かよわき我は、罪を贖う力はあらず。十字架のほかに、頼むかげなき」という深いキリスト教思想の歌詞を書くことができたのです。彼は、イエス様だけが道だという教えを確信していました。ルーテル教会では、故人ですが、わたしが個人的にお世話になった内海望先生は、それを持っていました。先生が翻訳した「ルターの慰めと励ましの手紙」に内海先生アメリカのフィラデルフィヤ神学校で学んだ時の恩師であるタッパート先生が序文を書いています。そこに、こう書かれています。「ルターが人々の魂に助言を与えたのは、信仰を養い、強め、確立し、実践するようになるためであった。」福音的な神学とは、日々の生活の中で「心を騒がす」ことがないように実践するように育てるのです。これは、内村先生が語っていた、後世への最大遺物、後世への最大遺産に一つではないでしょうか。

イエス様の弟子たちの信仰は、まだ、未熟でした。ここでトマスが登場します。彼はまだ頭の中でしか信仰を受け止めることができませんでした。つまり、心を騒がせやすかったのです。復活したイエス様にトマスが出会った時も、自分の指をイエス様の傷の中に入れてみなければ信じないといましたね。トマスは、ここで、イエス様の「道」を、神への道ではなく「神を知るためのプロセス」だと解釈しました。しかし、イエス様は、自分が神への道そのものであると教えたのです。

イエスが道であるというのは、何でしょうか。これを知っていたら、キリスト教の入学試験に合格です。しかし、意外と知らない場合があります。イエス様とトマスとの会話をみますと、道の意味が分かります。トマスは「これからたどる道」と考え、イエス様は「もうすでにすでに見ている」と言います。わたしたちのキリスト教信仰も、トマス的になりやすいものです。ただ、これでは救われません。ルターも自分の努力では救われないと悟りました。「千歳の岩よ」という讃美歌でも、「もゆる心も、たぎつ涙も、罪をあがなう力はあらず」となっているのがそれです。

8節には、もう一人の弟子であったフィリポが主イエスに向かって「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足出来ます」と語ったことが記されています。もう既に、あなたは父を見ているといわれているにも関わらず、フィリポも、これから見せてください、と願ったのです。彼は信仰を頭では知っていたかも知れませんが、実感していません。つまり、彼も「心を騒がす」くせが抜け切れていなかったのです。それは、まだ何か自分でできると思っていたからです。

それはトマスやフィリポだけの問題ではないでしょう。ルターは、「わたしたちが理性で判断したり、決定したりすることになると、信じることができなくなり、たちまち信仰を離れて道をあやまる」と教えています。

12節の「はっきり言っておく」は「よくよく言っておく」とも訳されます。アーメン、アーメンという、荘厳な言い方です。全ては今信じることにかかっているわけです。神がいま共に在ることを「今信じること」が大切です。元予備校教師の林修先生は「いつやるか、今でしょ」という言葉で有名です。彼が本の中でこう書いています。「ローマ時代に、キケロが演説を終わったとき、民衆は『なんと雄弁だろう』と感服した。しかし、デモステネスの演説が終わると今度は、口々に叫んだ。『さあ、行進しよう』と」ここでも信仰から実践、つまり「心を騒がせない」生活を今から実行する大切さがわかるのです。イエス様こそが神への道だというのを信じるのは「今でしょ」と、それをイエス様は言いたかったのです。ある学者は、教会での礼拝が、まさに「神と共にいる今」を示していると言います。2023年5月7日の今です。

だから、イエス様は、これから自分でどうにかしようとする、古い人間的なイメージを捨てて、たった今信じなさいと諭されたのです。今信じなかったら、明日はないかもしれない。今信じなかったら、これからの礼拝には、今信じなさいという、おすすめの言葉は出てこないかもしれない。(アーメン)そうではないでしょうか。今ですね。このように確立した信仰の結果は大きなものです。イエス様は信じるなら山をも動かすことができると言いました(マタイ21:21)。

13節のわたしの名によって、というのはエン トウ オノマティ ムウです。ギリシア語の原語を見てみますと「EN」という前置詞が入っております。これは「~の中で」とか「~の中へ」という意味があります。ですから直訳しますと「神(私)の中へ」という意味です。「中にいる」「中に留まる」そういう意味です。自分の命も自分の存在も、また自分の人生も生活も将来のことも、自分の思いも希望も、悲しみも喜びも、すべて神の中に入れてしまう、神にお任せする、という意味です。それが、信じるということです。難しい理屈はいりません。自分のすべてを神の無条件の絶対愛に預けてしまうのです。そこで信仰が確立し、心の分裂がなくなります。

最後に14節には、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とあります。

内村先生のように、金を残すには才能がいります。事業を残すのにも能力が必要です。内村先生のように思想を残すことができましたが、わたしたちには難しいことです。なぜなら、これらすべてはDOING(行動)によるものだからです。

内村鑑三の弟子であった坂田祐(たすく)氏は、貧しい家庭で育ち、銅山の鉱夫などをしながら勉強を続け、東京大学で学び、関東学院大学の初代学長となりました。彼が、内村先生の「後世への最大遺物」について、こう書いています。「上級学校に入学できなくてもよろしい。貧乏になってもよろしい。この世の事業に失敗してもよろしい。諸子が自分の人生観の基礎を確立して、価値ある生涯を送ることができたら、それは真の成功である。ここに理想を置いて真の奉仕ができるのである。奉仕とは自分以外のために尽くすことである。」

人生観の基礎の確立が大切です。それは、イザヤ書43章に書いてあります。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ書43章4節)どんなにDOINGができない人でも、存在することはできます。これは英語ではBEINGです。何も行動できなくても、金をためたり、事業をしたり、思想を残したりしなくても、ただ存在するだけで、宝石や黄金よりも価値がある、というのです。さらに、すべての人から憎まれても、軽蔑されても、石を投げられても、唾を吐きかけられても、馬鹿にされて荊の冠をかぶされても価値があるというのです。それを既にイエスさまは十字架によって証明しました。だから、わたしたちがどんな苦境に立って、どんなDOING ができなくても平気です。神に貴い宝として愛されている自分自身、これが後世への遺産、また奉仕の原動力です。

東海教区出身の今井康彦さんは、神学校には行かないけれども、事業を起こして教会活動を助けますといいました。障害者の施設を作って、ウズラの卵の生産を励みました。パッキングも発明しました。事業は大発展しましたが、悪い人に騙されて、数億円の借金ができてしまいました。しかし、今井さんには神様が残してくれた信仰という遺産があったのです。弁護士に相談して破産手続きをして、残りは全部返済しました。そして、今度は障碍者が働けるダイレクトメールの梱包の仕事という事業を開始したのです。彼は昨年12月に天に召されましたが、どんな困難にも負けない人でした。それは、神にとって自分という存在がどれほど愛されているかを知っていたからです。今日、わたしたちに与えられている後世への最大遺産とは、DOIUNGではなく、わたしたちの存在、神が絶対愛で愛してくださり、どんな時でも助けて下さるわたしたちのBEINGではないでしょうか。これを信じましょう。これこそ、後世への最大遺産なのです。

あれほど疑ったトマスもフィリポも素晴らしい伝道者になりました。今ここにいること、今ここでイエス様の約束を聞いていること、それは今、値なく、条件なく、日本人だとか外国人だとか関係なく、今まで無信仰だとか仏教徒だとか関係なく、犯罪者だとか親切な人だとか関係なく、すべての人が無条件で、イエス様を通して神の存在と一つになるという莫大な遺産を受け継いでいるという証明です。それは、受け継いだわたしたちが、また後世に残していくためのものです。今からちょうど50年前のイースターに、わたしは洗礼を受けましたが、それまでの「心を騒がす」人生から、イエス・キリストである千歳の岩の中で守られ、今も喜んで福音を伝えることができています。皆さんにも同じ祝福があるように祈ります。

 

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