新しくされる喜びを聖書から学ぶ説教
「神の消しゴム」 マルコ2:13-17
キリスト教が現代社会に貢献できるとしたら、それは何でしょうか。この世の経済や、技術、教育や知識では得られないものがあるはずです。フィンランド教育では読解力や理解力の前に心が大切だと考えています。初代教会の頃、ペトロは、聖霊降臨によって新しい伝道に出ましたが、エルサレムの「美しの門」と呼ばれるところで体に障害のある物乞いにあった時に、「わたしには金銀はないが、イエス・キリストのみ名によって歩きなさい」と命じ、その男は歩けるようになりました。その男が、直接に必要としていたのは、今日の命をつなぐ金銭でした。しかし、それらは使えばやがて尽き果ててしまうものです。それよりもむしろ、ペトロは、この人の健康を回復して、生活の根本を変え、自分で働いて生活の糧を得るように助けたのです。
その場で役に立つことも大切でしょうが、もっと長期的な意味で自立していく道を見つけることが重要です。ユダヤ人の諺で、子供に魚を与えるのでなく魚の取り方を教えなさい、というのも同じでしょう。
さて、今日の福音書の日課を見ましょう。今日の箇所では、徴税人のレビを弟子にすることによって生じた問題に、イエス様がどのように対処したかが書かれています。
今日の箇所を全体的にみるとどうでしょうか。イエス様のガリラヤ伝道の始めの様子が描かれています。色々な町や村に出て行って宣教したのです。西に困っている人がいれば助け、東に病んでいる人がいれば癒しの働きをしたのです。やがて、弟子たちも、聖霊を受けて伝道に東奔西走することになりました。聖霊を受けるときに、人間は神の救いの働きが、自分だけではなくすべての人の為であることが理解できます。聖霊が、第二コリントの手紙1:22にある「保障」なのです。しかし、伝道の最初から、問題が生じていることを、マルコ福音書の記者は伝えています。イエス様が告げた、罪の赦しと癒しを神への冒涜と考えた人々がいました。イエス様が弟子たちに断食という古い習慣を守る必要がないと教えたのでそれを不服とした人々がいました。また、安息日に労働をしてはいけないという律法がありましたが、イエス様の弟子たちはその律法を守っていないという非難がありました。ここだけ見ても、イエス様の伝道が初期のころから、とても多難だったことが分かります。イエス様は救いのために東奔西走したのですが、この世の中には闇の力が働き、それに対抗します。わたしたちも福音を伝えようとすれば必ず反対勢力が現れるということを想定したほうが賢明でしょう。正しいことだから、多くの支持を受けるだろうと思うのは間違いです。福音のために東奔西走した斉藤宗次郎の話を知っている方もいるでしょう。同じ町の宮沢賢治の「雨にもマケズ、風にもマケズ」のモデルになった人です。彼の伝道も娘を迫害で失うくらい大変なものでした。それでも人を助けたのは聖霊によるものでした。
さて、イエス様の伝道は風変わりなものでした。説明会もなければ、話し合いもありません。14節にあるように、イエス様が「わたしに従ってきなさい」と言っただけです。この時、レビはどう思ったでしょうか。生活はどうするのでしょうか。何を信じてついていくのでしょうか。全くわかりません。教え諭して伝道したのではないことが分かります。神の権威を感じることがあったのでしょう。わたしたちにはわかりません。しかし、ハッキリとしていることは、神の働きが外からくること、そしてわたしたちに必要なのはイエス様を救い主と信じて従うことです。ある聖書学者が言っていますが、「レビへの呼びかけは、単なる招待ではない。この呼びかけは、罪の赦しの印であり、神と人間を隔てる罪の障壁の除去である。」シュバイツアー博士がそうでした。アフリカに行く前に彼は大学教授候補でありオルガニストとして成功していた。しかし、「わたしに従いなさい」という霊的な導きに出会い、30歳から医学部に入り6年間勉強して、赤道アフリカの無医村での医療に向かったのです。ですから、こういう神の招きは実際にあるわけです。罪というのは、自我の殻ですから、これが神の招きによって取り除かれたときに、神への愛、他者への愛に生きることが自然なものとなると考えられます。レビはイエス様に従った時点で、罪の束縛から解放されていると考えられます。わたしたちも、実はこの招きを受けているのです。「あなたが選んだのではない、わたしがあなたを選んだ」(ヨハネ15:16)の言葉通りです。従っている。そして、神のみ言葉に従うことは、自己をささげることであり、自我を捨て、神との障壁が壊されることなのです。何故なら、神が己を無にして愛して下さったからです。真実の愛とは自己を空にすることです。神が自分を無にしてくださったことを知り、わたしたちは神の特質である、命と光と愛を受けるのです。
15節には、レビだけでなく、社会から排除されていた多くの罪人がイエス様の周囲に集まっていたとあります。重荷を負い苦しみ、社会からは捨てられ、軽蔑されていた人々、そして最悪のことには、ユダヤ人宗教社会で神から捨てられていると考えられていた人々とイエス様は親しく交わったのです。食事を共にするということは最も親しい交わりの印でした。イエス様と、もっとも嫌われていた人々の間には垣根がありませんでした。やがてのちには、イエス様も最も嫌われた一人として十字架につけられて殺されたのです。ですから、ここではっきりしているのは、イエス様は、嫌われた人々と食事を共にしただけでなく、最後まで嫌われた人々と共に歩み、嫌われた人となって死んでくださったのです。「わたしに従いなさい」という偉大な招きの言葉は、反対側から見ると、「わたしが最後の最後まであなたと共に歩むよ」という恵み深い約束にほかなりません。罪人と神との共存です。ですから、わたしたちがどんなに罪深くても、イエス様が共に歩んでくださることは確実です。わたしたちの周囲の者がどんなに罪深くてもイエス様が共に歩んでくださることは確実です。ですから、わたしたちも赦す人間になれるのです。自分が赦されているからです。実に、初代教会は、多くの罪人を受け入れ、パウロのような迫害者も赦して回心に導いたのです。ものすごい、神さまの赦しのパワーだと思います。わたしたちはこの赦しを礼拝を通して受けています。
16節のファリサイ派の律法学者というのは宗教的な人々です。彼らには自分が正しいという意識がありました。ある人は、「彼らの役割は今日の教師や牧師に似ている」とのべています。人に教える立場です。社会的に認められている人々です。しかし、自己義認の傾向があります。自分が正しい。ですから、自分を悪い人の側に決して置くことができなかった人です。あの人は悪いと言うが、自分が悪いとは決して心の中では思わない人です。神の前で、真の罪の告白ができない人です。それはもしかしたらわたしたちのことではないでしょうか。しかし、聖書には、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(第一ヨハネ3:8)と書いてあります。イザヤ書の日課イエス様こそ「背きの罪を雲のように吹き払う」ことのできる贖いの救い主なのです。罪人の罪も、ファリサイ派のような偽善者の罪も、罪は罪であって罪に変わりはありません。どんな罪も神は愛によって取り除いてくださいます。これを信じましょう。神は罪を消してくださいます。丁度、古代の羊皮紙の再利用パリンプセストのように、罪の記憶を削り取り消してくださり、新しい文字を書きつけてくださるのです。そこには、シャローム、神の平和と書かれているでしょう。「互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:50)。神の消しゴムそれは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というイエス様の約束に明確です。それは、ペトロが、福音によって障害者の生活の根本を変え、喜びと感謝の人生にしたようにわたしたちの人生も新しくしてくれるのです。「わたしには金銀はないが、罪を消し、心を雪のように白くする神の赦しと平和を受け取りなさい」そう聖書はわたしたちに告げてくれるのです。