「炎のランナーと共に走る」 マタイ11:25-30
映画、炎のランナーを見たことのある方はいるでしょうか。これは1981年公開のイギリス映画です。アカデミー賞作品賞受賞作品であり、エリック・リデルという実在のオリンピック選手を描いた作品です。その中に、イザヤ書40:31の「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」という言葉がでてきます。100メートル選手だったエリックは、礼拝の日である日曜日に予選が来たので出場をやめるという苦渋の決断をしました。しかし、同じイギリス選手団の友人のはからいで400メートルを走ることになったのですが、見事に優勝しました。これは彼の信仰の結果であったことを映画は示しています。
皆さんも人生で疲れ、また思いもかけない競争を走り抜かなくてはならない体験があるかもしれませ。体は疲れなくても、心の重荷で心理的に立ち上がれなくなったこともあるでしょう。特に、最近は、コロナウィルスのために、普通に思っていた生活が破壊されています。仕事の喪失、健康の喪失、家族の喪失など、耐えがたいものです。しかし、聖書はそんな時に、「主に望みをおく人は新たな力を得る」と約束しています。それは本当に真実なのでしょうか。
イザヤ書を見ましょう。ここにあるのは、解放の約束そのものです。今から2千数百年まえの頃、捕囚されたイスラエルの人々は、故郷を失い、財産を失い、家族は離散し、悲しみと絶望に落ち込み、疲れはてていました。信仰深いものたちは、自分たちが神から見捨てられたと感じていました。しかし、預言者イザヤは違いました。イザヤに絶望や失望は見られません、イザヤは彼らに神の慈愛を思い出させています。イザヤは、落ち込む人々に、神はどんなお方であるのかを想起させます。永遠の存在である神、創造主である神、疲れを知らない万能の神、そして英知に満ちた神です。この神に望みをおく者に、神は天から力を与えると、イザヤは伝えました。「主に望みをおく人は新たな力を得る」とは、イザヤ自身が神から啓示されたインスピレーションだったのです。わたし自身も、解決が見つからない時に、インスピレーションを与えられて、元気になることがありますが、イザヤの預言は多くの人々への励ましでした。この意味は、信仰によって新しい力をいただくことが出来る、つまり、古い自分が本来持っている人間的な力ではなく、主の賜物、主からの再生の力を頂戴するのだというのです。ですから、わたしたちは、常に主に信頼し、主に任せる必要があります。古い自分の力では解決できません。それは、聖書ではサルクスと呼ばれ、霊の力を失った屍と同じものです。「炎のランナー」の映画の主人公エリックも、何度もくじけそうになりますが、その都度、神への信頼に切り替えます。すると、本来の自分の力ではない力、天よりの力に満たされたのです。それが「主に望みをおく人は新たな力を得る」の意味です。
では、イエス様はどのようにこの福音を語ったのでしょうか。イエス様は、疲れた人、重荷を負った人はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、と言いました。疲れたというのは能動態で書かれていますから、自分で努力して疲れた人のことです。サルクスによる努力の限界です。実はこれは体力的疲れではなく、律法の要求を果たせないという疲れでもあります。自分が正しくないので苦しむ疲れです。「自分が望むことは実行せず、かえって憎むことをするからです。」(ローマ7:15)とパウロが語るのも同じです。じゃあ、だからどうにかしようと能動的に生きることはこの世の美徳であり、道徳です。しかし、それはともすれば神の助けを忘れ、更に疲れを重ねる生き方でもあります。多くの人が、この袋小路に迷い込んでいます。その反面で、休ませていただくというのは、非常に受動的なことです。いくじなしのようにも感じられます。弱虫です。
さて、宗教改革が起こったヨーロッパの中世社会では、救いは自分が能動的に贖宥することが求められました。つまり罪の償いを能動的にやりなさい、そうすれば裁きも軽くされますよという教えでした。現代でも同じ傾向はみられます。償いの思想です。自分の過ちは自分で償いなさい、という道徳的な要請です。ところがルターはそれをいくらやっても救いの気持ちにはなれなかったわけです。スッキリできなかったのですね。そして聖書を研究するうちに、キリストの十字架の贖罪による、受動的な(弱虫的な)恵みを受け取るだけの救いに目が開かれたのです。その時の気持ちをルターは「わたしは全く生まれ変わり、天の門が開かれて楽園に入った感じがした」と述べています。わたしも、洗礼を受けた時から数十年たった今でも、この弱虫的な恵みに生かされています。自分の力に頼っていったなら、絶望して自殺してしまったかもしれません。ですから、まさに、「主に望みをおく人は新たな力を得る」という約束は本当なのです。強い者ではなく、神に頼る弱い者が、安らぎの人生を歩むことができるのです。いや、炎のランナーと共に走ることもできるのです。それだけでなく、走っても疲れないのです。
ただ、人間は心理的に不安を持っています。招かれてもなかなか応じられません。わたし自身も、子供の頃、不安感が強くて、買い物や新しい場所に一人で行くのがいやでした。でも、イエス様は、誰でも来なさいと言われました。そこには条件がありません。どんな人でもよいのです。イエス様は神の愛が無条件に与えられていること、この神の愛を受け取るという受動的な救いを知るならば、安らぎを得ると約束しました。ただ、人間は実際の人生の試練、悲惨の前に脆いものだと知らなければ助けを求めることはできません。我が家でも子供たちが小さかったころ、大きなゴムボートに乗ってかなり沖合まで漕いでいきました。すると、「すみません」という泣きそうな声が聞こえたのです。見ると、海流に流されて一人の青年がおぼれかかっていました。無事救助できましたが、あとで子供たちと、「あの人はなんで、助けてくれー」と言わなかったのかなと笑って話しました。人間にとって恥も外聞も捨てて「助けて」と叫ぶ、弱虫精神が大切なのです。
ですからこの弱き存在がキーワードです。弱かったら悪い、強くなりなさいというのがキリスト教なのではありません。イエス様は、疲れた人は栄養ドリンクでも飲んで強くなりなさいとおっしゃったでしょうか。疲れた人は努力が足りないとおっしゃったでしょうか。疲れた人はあなたの生活管理が悪いと叱ったでしょうか。そうではありません。イエス様は、心配いらないから、とにかくわたしのもとに来なさい、そしたらわたしは安らぎを与えると言われたわけです。そういう受動的な救いを約束したのです。その典型は、礼拝であると言ってもいでしょう。礼拝は教育的な場なのではありません。信仰に未熟な者の訓練の塲でもありません。礼拝は神の招きの場です。「疲れた人は、皆おいで」と招かれているのです。初代教会の信徒たちが礼拝を通して感じていた、「恵みの所有者であることの喜び」を、ルターは是非復活したいと願っていました。これは主の無条件の招きに応じる事、主が来なさいと言えば来ること、主が行きなさいと言えば、行くこと、すなわち単純な信仰に根差すものです。わたしたちは、いまも、疲れた人、重荷を負った人はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、というイエス・キリストの招きの言葉を聞いています。礼拝はこの招きです。わたしたちに要求されるものは何一つありません。無条件の招きです。疲れた人、重荷を負った人はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、という招きに、信仰で応答することです。はい、ありがとうございます、そうしてください。それだけでよいのです。そしたら、イザヤ書の「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」という約束が実現します。本当にそうなるのです。神は実際に生きて働いておられるからです。
オリンピックだけでなく、この世のものは皆、強さを目指します。体力を競う「サスケ」というテレビ番組もあります。そしてナンバーワンを目指して奮闘します。しかし、イエス様はナンバーワンになれというのではなく、あなたはオンリーワンだ、大切な唯一の神の子なのだ、だから新しい力を受けなさいと招いて下さっているのです。第二コリント13:4に「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者です」とあります。パウロも弱虫だったのです。パウロは疲れた者、重荷を持った者としての自覚を忘れなかった人です。自分が疲れていることを知ること、そして、自分が招かれていることを知ること自体が、既に恵みなのです。イエス様は正しい人だったのに、神に見捨てられた人の苦しみを負ってくださったのです。
わたしたちはまだ、自分が強く生きることを自分に課し、自分を叱咤激励し、自分を少しでも高い位置につけようと努力しているかもしれません。それには多くの疲れが伴うでしょう。でも、今日もイエス様は休みなさいと言われます。
もともと日曜日は休みの日でした。神様が天地創造の7日目に休んだからです。いまでは世界中でキリスト教から始まった休みの日を法律で定めています。ただ、もともとは日曜日の始まりとなった安息日は体を休めるだけではありませんでした。神を礼拝して、神様の平安をいただく日でした。安息日はこの神の御心を知る日です。金メダルを逃しても惜しくない日です。それは、ナンバーワンではなくオンリーワンである自分を知る楽しい日です。そのときに、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」という炎のランナーの気持ちを知り、自分も炎のランナーと共に走り出すことができるのです。パウロも言っています、弱い者こそ、主にあって限りなく強い。そういう恵みのもとで、人生を走り抜きたいものです。