自己否定は神の絶対肯定と同義語であるということを知る説教(菊川ルーテル教会説教)
「神に受け入れられ神を受け入れる幸せ」 マタイ10:34-42
イエス様が語った剣とは、古いものと新しいものとを区別する象徴のことです。イエス様は古いものにこだわる人間心理をよく理解していました。新しい酒は新しい革袋に、とも教えました。ですから、古いものにこだわってはいけないのです。ただ、わたしたちの自分の力では古いものを切り離すことができません。ちょうど子供が好きなものを手放さないのと同じです。そこに切り込む剣とは、ギリシア語のマカイロスであり、ヘブライ書4章12節にある、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、中略、心の思いや考えを見分けることができるからです」、という意味であり、神の言葉の象徴であると解釈していいでしょう。今日の旧約聖書の日課のエレミヤ書いある「主が預言の言葉を実現する」という意味とも似ています。そですから、その剣があらわす事実とは、具体的な神への絶対愛であり、自己否定があるかどうかです。
人間は、通常は、自己否定ができないから、他者から否定されると落ち込んだり鬱になったりあします。本当は自己肯定したいわけです。ところが、自分がいじめや迫害で否定されると逃げ場がなくなるわけです。つまり、自己肯定したい人は、自己肯定のゆえに破滅するのです。子供が放そうとしない危険なおもちゃとは自分自身だとも言えます。では救いは何か。それは、自己否定です。そして、自己否定とは自分はダメだダメだと思うことではなく、自分以上の価値を知ることです。神の絶対愛によってどんな自分も受け入れられていると知ることです。これは自己肯定よりも無条件で素晴らしいわけです。無条件ですから。そして神の絶対愛を本当に実感することによって、古い自己肯定の願いは消えていきます。子供の場合には、危険なおもちゃよりもっと素晴らしいものを与えれば古い者は手放します。です。そのことが、39節に書いてありあます。わかりやすく言えば、自己肯定の人は否定されて自滅し、自己否定かつ神肯定の人は命の喜びを得るということです。
話題は、区別する剣から、受け入れることに移ります。神から遣わされたものを受け入れる人は、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストを遣わした神ご自身を受け入れるのです。これには、二つの実例があります。ある人が、ミッションスクールの研修で、学長であったシスター栗山とフィリピンに行きました。フィリピンの下町は怒号と喧騒の場所です。学生として参加したその人はクリスチャンではありません。しかし、街中をシスターと歩いて行ったときに神の存在を感じたそうです。騒いでいた人たちが、静まり、彼女の前に厳粛な様子になったそうです。もう一つの実例はわたし自身が経験したことです。2017年に長崎でカトリックとルーテルが合同して、宗教改革500周年礼拝を行いました。場所は、浦上天主堂です。原爆の投下されて焼けてしまった場所に再建築された礼拝堂です。カトリックの神父さんやルーテルの牧師がそろって教会堂内に行列して入っていくと、それを見守る2千人くらいの信徒たちは、両手を胸の前に会わせて迎えていました。おそらく、フィリピンの下町と同じでしょう。「神から遣わされた者」を受け入れる姿勢があったのです。「神に受け入れられ神を受け入れる幸せ」というのは、どちらが先という順番はないと思います。むしろ、同時かも知れません。わたしも、50年前に神の絶対愛をみ言葉を通して知り、神を受け入れ、幸せな人生を歩んできました。50年前には死のうと思っていました。これは古い自我でした。しかし、洗礼をとうして、古い自我が死んで新しく生きるようになったのです。きょう、洗礼や堅信式を通して神を受け入れる方々にも同じような幸せが約束されています。きっと後悔しないでしょう。
剣は、それを明らかにする、神の言葉にほかなりません。
今日の礼拝では、洗礼式と堅信式があり、2名の方が菊川教会の家族の一員となります。イエス様の大切な教えを守って、これらの兄弟たちを教会という体の大切な一部分として歓迎しましょう。この二人は、神様が菊川教会に派遣してくださった二人です。あの浦上天主堂に集まった信仰深い人々と同じように、わたしたちも胸の前に手を合わせて、神様が送ってくださったお二人をお迎えしましょう。それこそが、イエス・キリストの教えの実践です。