現在の苦しみの果てにあるものを知る説教
「喪失浄化」 ルカ9:18-26
聖書にはすべてを失った人の話が出ています。ヨブ記です。ヨブは無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けていたとあります。ヨブはサタンの働きによって、家畜や財産を失い、大風による事故で家族を失い、健康も失って苦しみました。この喪失はどんな意味があったのでしょうか。わたしたちもさまざまな喪失体験があるでしょう。親しいものが先に死ぬこと。大切のものがなくなること。自分の立場を失う事。福島の人たちのように故郷を失うこともあります。会いたくても会えない、帰りたくても帰れない。それは悲しいことでしょう。今日の日課のゼカリア書12:10には「独り子を失ったように嘆く」と書いてあります。その後13章の部分を見ますと、この喪失の嘆きには理由があることがわかります。13:1、「罪と汚れを洗い清める、一つの泉がひらかれること。」また、13:9にあるように「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」ことです。涙が古いものを流し、試練が人を清め、人の目を騙す虚栄を焼き尽くすかのようです。
福音書を見てみましょう。イエス様は祈りの時でした。そして人々が自分の事を何と言っているかを聞きました。最初に答えに出てきたのは、過去の人々でした。つまり、もうすでに死んだ神のメッセンジャーが甦ったという噂です。それからイエス様はその弟子たちに、あなたがた自身はどう思うかと尋ねました。答えたのはペトロでした。ペトロは神のキリスト(救い主)ですと答えています。人々が預言者だと言っていたのとは違います。キリストとはヘブライ語のメシアで、油注がれた者という意味です。神の代理者の意味です。神に代わる者です。ペトロは、イエス様こそ預言者ではなく神の代理者、この世で神の働きをする者であると言ったのです。
イエス様はそのことを誰にも話さないように警告しました。そして不思議なことを言いました。メシアは原語ではパスコする、その意味は、悪い扱いを受け、苦しみ、悩み、受難するというのです。実にパスコは過越祭のパスカと似ています。新約聖書の記者ルカは、こうした細かい点も配慮して、言葉を選んでいます。どういう苦しみだったかを暗示しています。それは、過越祭の苦しみ、つまり、ヨブが受けた様な、サタンの試練、悪の世界の試みから人を解放するための苦しみだったのです。そしてイエス様は、長老などから、ギリシア語でアポドキマゾー、その意味は、吟味したうえ不適格と判定されて捨てられる、と告げました。資格のない者として、テストに落第した者として排除されること。神の代理者なのに、だれも彼を敬わず、知らないうちに神を冒涜し、そして、アポクテイノー、死刑にしてしまうこと。そして、メシアであるイエス様は、死の世界に下り、三日目に死者の中から目覚める、立ち上がる、甦る、という意味が含まれています。ですから、パスコ(苦しみの世界には)色々な要素があるのが分かります。苦しみが苦しみで終わらない訳です。
確かに、苦しみには色々な要素があります。中国の民話に南昌士人という恐ろしい話があります。一つの苦しみを表わすものです。明代末期(日本の室町時代や、戦国時代)のことだそうです。少し長いですが引用します。
「江南南昌県に士人某がおり、北蘭寺で勉強していた、一人は年長で一人は年少、とても親しくしていた。年長の者は家に帰って急死したが、年少の者はそれを知らず、あいかわらず寺で勉強していた。日が暮れて眠ると、年長の者が扉を開けて入ってきて、牀(とこ)に登りその背を撫でて言った。「わたしは兄(けい)に別れて十日足らずで、急病のために死んだのだ。今わたしは鬼になったが、朋友の誼をひとりで断つことはできぬから、わざわざ訣別しにきたのだ」。年少の者は恐れ、話すことができなかった。死んだ者は慰めた。「兄(けい)を害しようとしているなら、正直に告げたりはしない。兄(けい)よどうか怖れないでくれ。わたしがここに来たわけは、身後のことを托そうとするからだ」。年少の者は心がすこし落ち着くと、尋ねた。
「何を托されるのでしょう」
「わたしには老母がおり、年は七十あまり、妻は三十前だ、数斛の米があれば、生きられる、どうか兄(けい)が援助してくれ、これがその一だ。わたしには刊刻していない原稿がある、どうか兄(けい)が刊刻し、わたしの名が滅びないようにしてくれ、これがその二だ。筆売りに数千文の借りがあり、還していないので、兄(けい)が還してくれ、これがその三だ」
年少の者が唯々諾々としてると、死んだ者は起立して言った。「兄(けい)の承諾を受けたから、わたしも去るとしよう」。そう言うと立ち去ろうとした。
年少の者はその言葉が人間らしく、貌(かお)はむかしのままだったので、だんだん怖くなくなり、泣いて引き留めた。「永の別れとなるのですから、すこしゆっくりされてから行かれてはいかがでしょうか」。死んだ者も泣き、戻ってきて牀(とこ)に坐し、さらに今までのことを述べ、幾つか話をするとまた起って言った。「わたしは行こう」。立ったまま去らず、両眼を見開いたまま、貌(かお)はだんだん醜く腐っていった。年少の者は懼れ、促した。「話はもう終わったのですから、お行きください」。屍は去らなかった。年少の者が牀(とこ)を叩き大声で叫んでも、去ることはなく、あいかわらず屹立していた。年少の者がいよいよ驚き、起つて逃げると、屍は追いかけてきた。年少の者がいよいよ急いで奔ると、屍も急いで奔った。追いかけること数里、年少の者は塀を越えて地に倒れたが、屍は塀を越えることができず、塀の外に顔を俯け、口の涎は年少の者の顔にたらたらと滴った。
夜が明けると、人が通りかかり、生姜汁を飲ませたので、年少の者は蘇った。死者の家では屍を見つけられないでいたが、報せを聞くと、舁いで帰り、葬儀を行った。
識者は言った。「人の魂(こん)は善だが魄(はく)は悪であり、人の魂(こん)は優れているが魄(はく)は愚かである。やってきた当初は、霊は滅びていなかったので、魄(はく)が魂(こん)に附いていたのだが、霊が去り、気掛かりがなくなると、魂(こん)は散じて魄(はく)が残ってしまったのである。」
ここで引用は終わります。ただここで、先輩の方が、死んでしまったのになお、親と妻の事、本の出版の事、文房具屋への借金の事に心を囚われていたことが分かります。それが人間の姿です。霊鬼の姿です。それは自由のない執着の世界、暗い闇の世界です。聖書では、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4:16、イザヤ42:7)イザヤ書には、「闇に住む人を牢獄から救い出す」と書いてある。さらに、イエス様の伝道の初め、そのメッセージは、イザヤ書61:1からの引用でした。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。」ここで、油を注がれたというのは、メシア、救世主のことです。そして、囚われている人を解放する。それは、イエス様がペトロに語った事と同じです。メシアはパスコの苦しみを受け、その苦しみは、ヨブが受けた様な、サタンの試練、悪の世界の試みから解放するための苦しみだったのです。聖書はこれから起きる事の預言を含んでいます。この解放と浄化は、十字架の苦しみを通してでした。十字架の意味とは、罪を洗い清める泉、つまりイエス・キリストの流された血潮による浄化です。その印が聖餐式です。もう一つは、試練と金と銀の精錬に関してです。エレミヤ書には、「見よ、わたしはわが民を、火をもって溶かし、精錬する」(エレミヤ9:6)とある。金や銀も不純物を取り除かなくては輝かない。人間も闇に支配され、様々な執着の檻にはいっている。神ではないものを第一にしている。これは焼いて溶かされなくてはならない。精錬されること。その試練の苦しみが十字架だったのです。神は我が子イエス・キリストを犠牲として、試練を受けさせ、暗闇に住む我々の光としたのです。ですから、わたしたちも試練と苦しみを避けてはいけない。神ですら我が子を失う試練を自分に置いて、わたしたちを清めてくださったのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:24)救いの試練の十字架を信じる者すべてを清めてくださり、さまざまな霊鬼から守り、死の世界から救われ、自由となってこのよき知らせ、福音を伝えるのです。パウロは言いました、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(第二コリント4:10)そこで、信じる者は、四方から苦しめられても苦しまず、途方にくれても、失望せず、打倒されても滅びないのです。この福音は今日もわたしたちに与えられています。