印西インターネット教会

菊川ルーテル教会(静岡県)での説教

「尽きせぬ恵み」        マタイ14:13-21

本日の日課は5千人の給食と呼ばれ、イエス様が群衆を満腹させたという奇跡の話です。ここで思い出すのは、列王記上17章14節のエリヤが貧しいやもめに語った言葉です。「甕の粉はなくならず、壺の油はなくならない。」尽きることのない神の恵みを預言者エリヤは信じていました。今日は8月6日で78年前に広島に原爆が投下された日です。家内の故郷は広島ですので、被爆して原爆病で苦しんだ親戚の人もいます。廃墟となった広島で、食べ物に困った人々は、手元にあるものを集めて焼いて食べたそうです。それがお好み焼きの始まりでした。まさに苦しみの中にあっても「甕の粉はなくならず、壺の油はなくならない。」だったのです。

さて、イエス様の当時はユダヤ教の過越しの祭も近くなっており、エルサレムに向けて旅する多くの人々がいたと考えられるようです。

ただ、五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人を満足させることは私たちには不可能としか思えません。確かに毎日の生活で、わたしたちはよく、「私たちには不可能だ」と考えやすいものです。しかし、それは、「私たちには何もすることがない」という意味ではありません。ですから、イエス様は「あなたたちが持っている五つのパンと二匹の魚を私の所に持ってきなさい」と言ったのです。不可能という前に、目の前の可能なことのために行動するように教えました。エリヤも何も持たないやもめに対して、ほんの少しの粉とほんの少しの油でも持ってきなさいと命じました。イエス様も弟子たちに、ないものを嘆くことを禁止しました。つまり、心の中で、不可能だ不可能だと叫ぶ、原罪(オリジナル シン)から出てくる言葉を禁止したのです。それとは反対に、現在目の前にあるものを感謝することを求めたのです。これは見えないものを見る信仰です。わたしの好きな聖書個所に、「見よ、主の手が短くて救えないのではない」(イザヤ書59章1節)という箇所があります。人間の中に巣くっている原罪と不信仰が、「私たちには不可能だ」「~しかない」ないという否定的な言葉で人間を汚染するのです。この汚染は教会にまで広がることがあります。

しかし、もしわたしたちの物の見方が今までと違って、「甕の粉はなくならず、壺の油はなくならない。」という肯定的なものになったら、本物の、信仰がうまれたということです。わたしが280キロ離れた千葉から菊川に神様によって遣わされているのも、牧師としてこの本物の信仰を養成するためだと思います。

 

しかし、当時の弟子たちの信仰は、まだ未熟でした。ですから、もう解散させてくださいとイエス様にお願いしています。「甕の粉はたりないし、壺の油も残っていない」という絶望的思想です。しかし、イエス様は「あなたたちが食べ物を与えなさい」と命じられたのです。これは弟子たちにはショックだったと思います。自分たちの否定的、絶望的な、不信仰状態を直撃されたからです。聖書は時々「あなたならどうする」つまり「どうする家康」みたいな問いかけをします。他人事ではないのです。どこかでおなかをすかした人がいるという新聞記事のようなことではないのです。78年前に太平洋戦争が終わった、戦争はもうしないで平和の日を作って記念しよう、という社会運動でもないのです。何よりも重要なことは、何もなくなった。そのとき、今「あるもの」を集めて感謝しなさい、お好み焼きでもいいから作って腹を満たし、ある物を感謝するしなさいということです。これが分かると、「見よ、主の手が短くて救えないのではない」(イザヤ書59章1節)という言葉が心に響いてくるのです。

このパンの奇跡の物語は、四つの福音書すべてに記録されています。わたしがイスラエルに住んでいた時に、イスラム教徒に破壊されて廃墟となった古代の教会の床に、今月のルーテルの表紙写真にあるモザイクの五つのパンと二匹の魚を見たことがあります。これを絶対忘れてはいけない。そのくらい衝撃的だった訳です。

さて福音書の中の平行記事である、マタイ福音書とマタイよりよりも早く編集されたマルコ福音書の記事を読み比べると面白いことがわかります。イエス様が五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えた後、マルコの記事では「パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6・41)となっているのですが、マタイでは魚の分配は書いてありません。マルコの分配の記事は、古代教会で聖餐式にパンとぶどう酒ではなく、パンと魚を与えていたことと関係があるのかもしれません。これが日本だったら、米のおにぎりと、鰹節で聖餐式をしても悪くない筈です。

さて、この19節の部分で、「天を仰いで賛美の祈りを唱えて、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」とありますが、これは、食卓の感謝の祈りでした。食べ物の祝福ともいいます。わたしもイスラエルで学びました。ユダヤ人は食事の前に、バルク、アタ、アドナイ、エロヘヌ、メレク、ハ、オラム、ととなえます。「この世界の王であるあなたに祝福あれ」という意味です。ここの、ヘブライ語のバルクは、祝福という意味で、アメリカ大統領だったバラク・オバマのバラクと同じです。

この賛美の祝福とは「神の業をその全内容において肯定し承認する」という意味です。苦しみさえも神の御心として、それは「良いもの」とし、賛美しなさいと教えられているのです。聖書的信仰は深いものです。辛い事や、悲しいことがあっても、「見よ、主の手が短くて救えないのではない」(イザヤ書59章1節)ということが示されます。

賛美の祝福は最後の晩餐、つまり聖礼典と関係があります。つまり、マタイ福音書はこのパンの奇跡を通して、人を満たすのは町で買ってくる食べ物ではなくて、また人間の人間による人間のための努力でもない。イエス様が祝福して与える食べ物こそが、人の罪を贖い、本物の信仰を与えるものだと教えたいのです。

ところで、この世の中では何かを得るために何らかの費用、代価を払わなければなりません。弟子たちの信仰は、まだ未熟でしたので、彼らは、命の食料を買いに行かせてくださいとイエス様にお願いしています。

イエス様がまだ信仰の浅い弟子たちに、どこかで買ってくるのではなく、自分の手でパンを集めて配るように命じられたことは、あなたたちが今度は「命を分かち合いなさい」という意味です。福音を宣べ伝え、命を与える使命が弟子である、あなたたちにもあるということです。

わたしたち自身の、たとえ小さな力でも、神の前では五つのパンと二匹の魚です。イエス様の祝福と助けによって、必ず誰かを支える恵みになります。そのような恵みのうずが広がる場所が教会です。

今日の旧約聖書の日課はイザヤ書でした。そこでは、パンにしろ、水にしろ、お代はいりませんって言っているわけです。神ご自身が無条件の愛をもって、代価なしに、つまり人を良い人とか悪い人という差別なしに配る恵みは、尽きることがないのです。本物の信仰が生まれれば、あれが足りない、これがないという絶望や不信仰は吹き飛んで、神の恵みは尽きないこと、そして「甕の粉はなくならず、壺の油はなくならない。」ということが本当に自分の確信になります。確信の力はすごいものです。わたしの知人の会社員の人は、地方の無名の高校を普通の成績で卒業しましたが、ある時に東大に受かるという確信が与えられて、一年浪人した後に合格しました。確信の力だと思います。確信を与えるのは神です。これを自分では努力して獲得することはできません。だから、イエス様は自らの命と確信の力を与えることを、聖餐式をとおして約束したのです。ですから、わたしたちに必要なのは、ルターが言ったように、飢えた乞食の差し出す手でいいのです。その時に、「見よ、主の手が短くて救えないのではない」(イザヤ書59章1節)「甕の粉はなくならず、壺の油はなくならない。」ということがわかるはずです。わたしたちのこの世の人生はやがて尽きますが、神の恵みは永遠に尽きることがないことを覚えて、心から感謝しましょう。

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