印西インターネット教会

人生の天動説から地動説への大転換を学ぶ説教

「逆風をついて」        マルコ6:45-52

イエス様の弟子たちはガリラヤ湖の嵐に悩みました。嵐と言えば、台風が良い例です。最近は台風の影響で日本では珍しい竜巻まで起こっています。この竜巻は、アメリカに留学していた際にその痕跡を見たことがありますが、大木も根元から折れていました。風は空気の流れに過ぎませんが、時には、ものすごい力を生み出すものです。

こうした自然災害はできればないにこしたことはありません。しかし、人知を超えた自然現象は、人間存在の小ささを知らせるものでもあります。宇宙空間という莫大な地域において人間存在とはいったい何なのでしょうか。地球という木材を食い荒らすシロアリのような存在でしょうか。あるいは、太陽系に生息するバクテリアのようなものでしょうか。もし、そのシロアリや、バクテリアが我が物顔に自己主張しているとしたら、考えただけでも実に滑稽なものです。しかし、実際にはそうなっています。わたしたちは、時には、自分たちが宇宙の詞人口であるかのような考えを持つことがあります。しかし、イエス様は違いました。人間存在の小ささを熟知していたのです。

さて、イエス様の弟子たちは、もともとガリラヤ湖の漁師でしたから、天候の悪い時に遭遇したこともあったでしょうし、嵐に対してそれほど恐れを持っていたとは考えにくいものです。また、自分たちの力で解決できるような問題は、想定内の事柄であって、問題とはならない問題なのです。わたしたちの人生も同じではないでしょうか。自力で解決できる問題は問題とは言えないかもしれません。誰でも、弟子たちにとってのガリラヤ湖のような、自分のホームグラウンドで物事を解決して生きているわけです。

ところが、神さまは、人知を超えた状況を創造することがあります。それまでは当然だと思っていたことが、もはや当然ではなくなるのです。これは、ある面では奇跡であり、自分の能力や努力では決して抜けられない分厚い鉄の扉のようなものだとも言えます。旧約聖書のゼファニヤ書にもこのことがかかれています。ゼファニヤ書1章2節に、神の言葉として「地の表面から、生きるものを一掃し、命を絶つ。荒廃と滅亡の日を起こす。人々に苦しみを起こす」とあります。ここだけ見ますと、神の愛はほとんど感じられません。ただこの個所全体を通読しますと、神の与える困難は、「主を求めよ」という目的のために置かれているのだと理解できます。人間が、自分自身で物事を解決できるという傲慢な考えをもったときに、「本当にそうだろうか」という問いかけを神さまは与えるのだと思います。イエス様が、「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われたのと同じです。その背景に、人間の滅亡を望まない神の愛が隠されていることは確かです。

当時、弟子たちは、良い魚を求めて生活していました。それは悪いことではないはずです。ただ、魚以上の事柄を考えにくい環境でもありました。金子みすずという人の作で、大漁のお祝いの詩があります。「大漁だ、浜は祭りのようだけど、海の中では何百万の鰯のとむらいするだろう」。これはまさに人間世界の自己中心性を突き破る視点を持った詩だといえます。魚の世界に言及しているからです。これをさらに敷衍して、魚を求める生活以上の世界に広げた時に、生活の糧を求める物質的生活から、主を求める霊的な生活へと拡大していくのではないでしょうか。視点の、次元が拡大するのです。使徒書のエフェソ書4:15には、「あらゆる面でかしらであるキリストに向かって成長する」ことが大切だと書かれています。これは、わたしたちの努力次第で、できるという事柄ではなく、本来はキリストの賜物であって、キリストにつながっていることによって可能なのです。成長はキリストの恵みだからです。

今回の福音書にありますが、イエス様の宣教と生涯は、まさにこうした霊的な恵みを与える事でした。現代の宣教のように人数にこだわることではありませんでした。46節にある祈りでも、まず弟子たちの霊的な成長のために祈っておられたのは確かでしょう。別の箇所にも書いてあります。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:31-32)ここには大変なことが書かれているわけです。つまり、イエス様の理解では、サタンもまた神の許可を受けて人間に苦難を与えることが許されている、ということですね。これは、ヨブ記の内容と同じです。サタンでさえ、試練をもって人間を悩ませることが許されているのです。巨大台風や、巨大地震、コロナ禍や戦争、大変な干ばつと食糧難、これをもってサタンは人間を打つことが許されているのです。ですから、神は愛だと思っている心が砕かれ、神の愛と守りさえ信じられないときもありうるわけです。つまり絶望がありうるのです。また、暗い闇や死の思想が人を支配することすら許されているのです。当然のことながら、善人であったイエス様が、極悪人として十字架の刑につけられることも許されていたのです。それは、逆風も、試練も、苦しみも、絶望も、挫折も、困難も、ガリラヤ湖のどうしようもない波風も、神のご計画の内にあるものだということを示しています。神の御心は人知をはるかに超えています。

弟子たちが絶望の波に翻弄されていた時に、イエス様はすぐに助けに向かいませんでした。彼ら出発したのは夕方ですが、夜明けの頃までで弟子たちは、本当に長時間、嵐の湖上で漕ぎ悩んでいたのです。おそらく力も尽きて流されていたことでしょう。それでも、イエス様はすぐに助けに向かうことはありませんでした。そして、近くに現れたときにも、直ぐに舟に乗らず、通り過ぎようとしました。助けを必要としている弟子たちがいるのに通り過ぎようとしたのです。実は、このような弟子たちが体験した無力さにおいて、物質的時間であるクロノスではない神の時間、カイロス、つまり救いの時があるのです。50節で、弟子たちはイエス様のことを原語で「ファンタスマ」、つまり亡霊のように思って恐怖の叫び声をあげた。確かに霊的な存在でした。また叫びは彼らの無力さからの叫びでした。その時、霊的存在として無力な弟子に現れたイエス様は3つのことを語ります「安心しなさい、わたしだ、恐れるな」。1安心命令、2神聖なる存在の共存、3恐怖の除去。これは、ものすごく大切な神の霊的な方程式といえます。それまでの弟子たちの生活にはなかった点です。

神は、わたしたちにも、逆風のなかで、無力さの中で救い主の方程式、「安心すること、救い主の霊的臨在の確信、恐れないで進む行動」これを示されています。この方がいる限り、どんな試練も、どんな逆風も恐れることはないのです。弟子たちの場合には、ガリラヤ湖の波が静まっただけでなく、彼らの心の波も静まったことでもありました。

わたしたちが人生の波に襲われて漕ぎ悩むことがあるでしょう。事故、難病、別離、失職等々。それも、神の御心と無関係ではありません。わたしたちも、恐怖や悲しみや失敗で心の中で叫ぶこともあるでしょう。それも、神の救いのご計画とは無関係ではなわけです。神は試練をも用いて、わたしたちの視点を、動かない自分を中心に天体や社会をぐるぐる回している、天動説から、真実な姿である地動説に変えて下さるのです。同心円から変えて、霊的な未知の境界線へと向かった鋭い矢印にしてくださるのです。その矢印は、試練を突き抜け、神の栄光を表した、イエス・キリストを示しています。

ですから、パウロも「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(第一コリント2:2)と書いています。十字架に罪の赦しがあります。サタンが与えることを許された試練は、わたしたちの苦しみを用いて、自己憐憫に向かわしめる策動ですが、それをはるかに超えた十字架は、わたしたちを神の霊の方向性に転換させる。神学的大方向転換、つまり悔い改めに導くのです。地動説から天動説への大転換。ここに究極の霊的平安があります。弟子たちのガリラヤ湖上での平安は、やがて、彼らの不信仰にもかかわらず、神の一方的な恩寵によって与えられた永遠の平安のための先取り的な約束だったのです。わたしたちにも、今日も、カイロスの時はきています。主は語る。「安心しなさい、わたしがともにいる。」神は、逆風をものともせず、前進させて下さり、必ず向こう岸に着かせて下さいます。

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