印西インターネット教会

信仰とは何かを学ぶ読む説教

「パンくずでも結構です」   マタイ15:21-28

今回の説教題はパンくずのことです。戦後、シベリアに抑留された人たちの手記を読んだことがありますが、零下30度以下での強制労働は過酷だったようです。食べ物も不足していました。毎日、水のようなスープと黒パンだけでした。この黒パンがものすごく硬くて味がなかったそうです。

さて、今回の日課には、イエス様と弟子たちが異邦人の地である、ティルスとシドンという地中海沿岸地方へ伝道に行った時のことが書かれています。わたしもイスラエル滞在中に西北部の海岸地方に行ったことがありますが、上陸しやすかったせいか、昔の十字軍の遺跡な度が残されていました。イエス様の一行がその地方に行ったのは、ずっと以前ですが、港湾地帯には同じような異国文化があったと思われます。ですが、そこにもユダヤ人は散在していたわけです。ちなみに、パウロの出身地はそこより400キロ以上北のアンティオキアという町でした。つまり、ユダヤ人は地中海沿岸の各都市に住んで、異邦人の中で重要な働きをしていたわけです。ですから、ユダヤ人は2千年前から、国際人だったのです。イエス様は、遠くに住むユダヤ人にも福音伝道し、その際に様々な異邦人との出会いがあったことがわかります。これは閉鎖的だった当時のユダヤ人には考えも及ばないことだったのです。すべての民は平等に神に愛されているという信念がなければ、とうていできないことでした。そしてここでは「異邦人の救い」が主題であり、異邦人であるわたしたちの救いの事も書かれているのです。

それはともかく、イエス様はガリラヤ湖畔から100キロ以上歩いてティルスとシドンという地中海沿岸地方へ行かれたわけです。ガリラヤ湖畔からエルサレムはもっと遠かったわけですが、イエス様は平気で弟子たちと旅しています。距離は問題ではなかったのです。イスラエルに住んでいた時に地元の人に聞いたのですが、エルサレムの人は昔30キロ離れたエリコまで行って仕事をし、その日に帰ってきたそうです。徒歩で一日60キロですから、今考えると途方もない移動距離です。でも考えてみれば、日本でも江戸から京都まで一週間くらいで旅行したのですから、不可能ではないことがわかります。それに比べたら、わたしが月に一回、静岡県の菊川教会まで電車や自動車で行くくらいは簡単なことと考えられます。そして、そうした旅の中で、イエス様は、毎日の生活や儀式化してしまった宗教の中で信仰心を失った人々に、神の愛の福音を伝えたかったからです。

さてこのティルスとシドンの地方での福音伝道の際に、地元の女性であるカナンの女が出てきて救いを求めました。彼女は外国人でした。当時のイエス様は万民平等の考えは持っていましたが、ユダヤ人のみに伝道することを考えていたのです。さて、イエス様に救いを求めた外国人の女性は、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられているから助けてほしいと求めました。どの宗教でも病気の癒しを求める願いはあります。最初にイエス様は無言でした。拒絶です。神の沈黙という場面だともいえます。例えば、わたしたちが祈ったのに願いが聞かれなかったので失望することもあるでしょう。しかし、それは、考えてみれば自分中心の祈りでしかありません。キリスト教以外の宗教の祈りも同じです。イエス様は外国人のこの女性の願いを聞きませんでした。弟子たちもこの女性を追い払おうとしました。そこで、イエス様は自分きた目的は、困っている人を祈祷して治療するのではなく、神から離れたユダヤ人を福音によって救うためだと語りました。これが、本来の伝道の目的だったのですね。伝道の根本課題は、目の前の問題解決ではなく、救いの実現です。

ところが、この婦人は外国人でありながら、「主よ、ダビデの子よ、憐れんでください」とういう言葉を叫び続けイエス様に助けをもとめました。憐れみという言葉は、ギリシア語のエレイソンであって、礼拝の中の「キリエ エレイソン」(主よ、憐みたまえ)と同じです。なぜなら、目の前の問題の解決ではなく、「神の憐れみを求める」ことは、ユダヤ人が神に嘆願する方法だったからです。このカナンの女性は、ユダヤ人ではないのに、ユダヤ人と同じように「救いを求めた」のです。それは真の信仰者の姿だったわけです。

八王子教会で牧会していたころに、日本に宣教師を送り出してきたアメリカのサウスカロライナ州の教区役員の方々が表敬訪問されました。そのときに知ったのですが、アメリカの南北戦争の際に、優勢な北軍に攻撃されで焦土化してしまったサウスカロライナ州でしたが、その困窮の中でも教会員たちは玉子を売って、海外伝道への献金をしたそうです。それは、まさに真の信仰者の姿です。そうした信仰心は日本ではまだ多くは見られないなと反省したことでした。

また、カナンの女が叫んだ「主よ、ダビデの子よ、憐れんでください」とういう言葉は礼拝の言葉でもありますので、この女性は外国人であるのに、既にイスラエルの神、天地創造の神を信じ、礼拝していたのかもしれません。

さて、当時のユダヤ人たちの信仰理解では、外国人は救いの対象の外にありました。ユダヤ人は唯一神を知っている自分たちを優位に見ていました。そして、自分たちの信仰の祖先である、アブラハムやモーセ、そして預言者たちさえも、このカナンの女性のように、常に、「主よ憐れんでください」と叫んでいたことを忘れてしまっていたのです。それだけでなく、居留の外国人に対しても親切に接するように聖書が教えている言葉も忘れ、外国人とまったく付き合わないのが神意だと考えていました。つまり、聖書を信奉している人々が聖書を無視していたのです。

宗教改革が起こってから500年以上たちますが、ルター言ったように「信仰が人間に依存し、人間の言葉に基礎づけられている」所に問題があるのです。ですから、宗教改革とは、人間の習慣、人間の考え方を捨てて、聖書に語られた神のみ言葉のみに信仰を持つという姿勢に立ち返ったのです。これは現代でも必要なことです。実に、2千年前に「宗教改革」を行ったのはイエス様でした。儀式や形ばかりになっていたユダヤ教を、本来の姿である、神の愛中心の宗教に立ち返らせたからです。

さて、このカナンの女性は、イエス様の沈黙に出会っても、心のない弟子たちに何度も叱責されても、「叫び続けて」憐れみを求め続けたのです。実はここれが、わたしたちにも有効な信仰のテストです。相手が自分の思うように行動してくれない、そのとき、短気になって感情的になったり、失望して落ち込んだり、そうなりやすいのが人間です。でも、この女の人は、違いました。「主よ、憐れんでください」という礼拝の言葉だけでなく、実際にイエス様の前で、ギリシア語のプロセキュナイ、つまりひれ伏して礼拝したのです。ここに、信仰と礼拝は一つであることがわかります。信仰によって、礼拝し、礼拝によって信仰が成長するのです。ある教会で牧師の説教に不満で、礼拝中に新聞を広げて読んでいた信徒がいたそうです。スゴイことをしたわけですね。しかし、彼は礼拝出席は欠かしたことがありませんでした。いわば、執拗に嫌がらせを続けていたわけです。ところが、自分の態度を叱責するでもなく、平然と説教する牧師の言葉が次第に心にのこり、信仰が成長し、「自分の判断を第一にする」という高慢な過ちに気付き、牧師に謝罪したそうです。昔は礼拝堂の会衆席に跪くための台が付属していたように、礼拝は低くなることであり、信仰も神の前に低くなることなのです。信仰とは、自分の神への官憲を持つことではなく、自分を低くして、自分中心の観念を捨てて神の憐れみにゆだねることなのです。ですから、母親の腕の中に自分をゆだねている赤子の姿は、信仰の姿です。

さて、その時にイエス様は、子供たちのパンを犬にはやらないと言われました。パンとはユダヤ人のための命の糧という意味です。ユダヤ人は神の特別のケアを受ける羊です。犬とは差別的表現で異邦人をさしています。羊と犬の対比は興味深いものです。しかし、この女性の素晴らしいところは、犬と言われても反論していないところです。彼女の返答は、「主よ、ごもっともです」でした。そして「しかし」という反論ではなく、「なぜならまた」「パンくずでも結構です」と意見を述べてあきらめなかったことです。それは、自分が正しい生き方ができる人間ではなく、神の憐れみなしには1日も生きてゆけない弱い存在だという信仰告白でもあります。本当に弱い存在になった時に、パンくずでもシベリアの強制収容所の黒パンでもありがたいものです。やはり、500年前の宗教改革が明らかにした信仰とは、自分の業績や行い、あるいは神の羊だというプライドを捨て、まさに見捨てられた犬となり、乞食となりきる低い姿勢のことだったのです。ルターも、自分は「神の乞食だ」と書いています。

だからイエス様はパンくずでも結構ですと信仰告白した女性に、「お前の熱心さは素晴らしい」とは言わず、「信仰が大きい」という意味のことを原語でおっしゃったわけです。これは人間の努力の結果ではありません。神が与える信仰です。己の低さです。キリスト教の中心的な教えは、信仰、希望、愛ですから、その信仰心の確かさをイエス様は称賛したのです。ここは、羊であるユダヤ人と犬である外国人の違いが信仰によって克服された最も美しい場面だと言えるでしょう。神が求めるのは、この低き姿です。「パンくずでも結構です」と心から言える姿です。それは、砕かれた姿であり、礼拝の姿でした。彼女の信仰により、その結果として人生の暗闇は去り、娘の病は癒されています。わたしたちもイエス様の教えに従い、信仰において礼拝し、礼拝において信仰を養われ、人生の中で神の沈黙に出会っても「パンくずでも結構です」と言えるように導いていただきたいものです。

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