閑話休題

米国産「獺祭」の発売とプリム祭

ブランドともいえる日本酒の獺祭(だっさい)は正岡子規の数多い俳号の一つ「獺祭書屋 主人」にも由来しているようです。また、子規初の単行本であった「獺祭書屋俳話」にも、獺祭の言葉がみられます。獺祭とは、獺(かわうそ)が自分が捕獲した魚を土手などに並べる習性があって、それがあたかも、獺が神に獲物を捧げて祭っているようだという状況描写に由来します。獺(かわうそ)の本能的、擬似的祭儀行為が、日本酒の名前にもなり、それがニューヨークにまで進出したわけです。これで思い出すのは、イスラエルに住んでいた時に見たプリム祭りでした。いつもの礼拝時には厳粛なユダヤ教礼拝堂も、このときはまさにお祭り会場となっていました。子供たちは、手に持ったガチャガチャのようなもので大音響を鳴らすし、人々は仮装して踊り回り、ユダヤ教の祭司でもあるラビたちは、鼻を真っ赤にして酔っぱらっていました。このプリム祭は、毎年アダルの月(日本の3月ごろ)に行われますが、その起源は、旧約聖書の「エステル記」にさかのぼります。当時、ペルシアの大王の高官だったハマンがユダヤ人大虐殺計画をたてましたが、王妃エステルの機転によって救われたことを祝う行事がプリム祭です。あたかも、獺が神に獲物を捧げて祭るかのように、ユダヤ人たちは自分たちの感謝の思いを大騒ぎしながら神にささげるのがプリム祭です。そこでわかるのは、祭りという行為が、当事者が人間であろうと獺(かわうそ)であろうと、神に向けた感謝の捧げものという意味があることです。礼拝も同じではないでしょうか。礼拝が、単なる儀式や、勉強会、講義、演奏会となってはいけないと思います。礼拝の中で、神様の贖罪と解放の働きに対する、絶大な感謝の思いがささげられるときに、礼拝は礼拝となり、神聖なものとなるのでしょう。その意味では、プリム祭は騒々しい面も含めて、実に神聖なものだといえます。お祝いにおいて酔いつぶれるまで飲むラビたちに、日本酒の獺祭(だっさい)を提供し、その意味を説明したら、彼らはきっと喜ぶことでしょう。

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