今週の説教

神のもとに立ち返る大切さを学ぶ説教

「感謝のユーターン」     ルカ17:11-19

車を運転していますと道路の標識に、ユーターン禁止というマークを見かけることがあります。つまり方向転換をしてはいけないということでしょう。ところが、聖書の中の言葉である悔い改めは、方向転換でありユーターンなのです。今日のみ言葉の教えはユーターンです。旧約聖書の列王記下5章以下に記載されているアラム人のナアマン将軍は、皮膚病を癒してもらうために、イスラエルの預言者エリシャの家に行きました。ちなみに、アラム人とはアブラハムのようなセム族の人種でして、もともとはメソポタミア地方の部族で、後にはダマスカスとかシリアに王国を築いた人々です。このナアマン将軍は、エリシャの家で治療されたのではなく、ヨルダン川に行って体を洗いなさいと言われただけでしたので、怒って本国に帰ろうとしました。しかし途中で部下たちに諌められて、引き返し、つまりユーターンして、ヨルダン川で身を洗ったら病は癒されたのです。もう一つ、ルカ福音書の記事では、10人の人が皮膚病を癒されたのですが、その中で、感謝してイエス様のところに戻ってきた、つまりユーターンしたのは一人であって、しかも、外国人だったというのです。これらの日課に共通していることは何でしょうか。

第一には、本当の神を知らない外国人たちが神の奇跡を経験して、神を信じるようになったという出来事です。

第二に、信じて今までの生活からユーターンするということは、信仰によって悔い改めて生活を方向転換することです。

聖書に書いてあるのは皮膚病のことですが、それは罪の問題を象徴していると思います。心がただれてかさぶたになったり、腐って病んでいるわけです。それにつける薬はありません。不満、ストレス、怒りなどの原因は罪の問題です。罪の問題の解決は、わたしたちが神様のみ言葉に、従うか従わないかにかかっています。ナアマン将軍は、川で身を洗うなら、ヨルダン川でなくても自分の国にいくつも清流があると言って、一度は否定したのですが、あとで心を入れ替えて預言者エリシャの言葉に従い、癒されたわけです。ですからユーターンとは、今まで自分の指針となっていた信念などの自分の考えを捨てて、神に聞き従うことでもあるのです。

福音書の日課も癒しの問題を扱っています。それはイエス様が「ある村」を通った時のことでした。この村にはハンセン氏病患者が多く住んでいました。当時は差別が激しかったので、病人たちはどこに行っても毛嫌いされたことでしょう。そんなこともあって、彼らはおそらく自分自身をも愛せない人々だったでしょう。普通の旅人なら感染を恐れて、そういった場所は通らなかったでしょう。イエス様は違いました。病気を畏れる心や、差別する心がなかったからです。その時に、病人たちが助けを求めて叫んだ言葉、「憐れみたまえ」、はエレイソンというギリシア語であり、前にも述べましたように、礼拝の用語であるキリエ・エレイソンの原語であることは意味深いことです。これは他人事ではなく、重荷を負って苦しんでいる者の共通の叫びでもあるとも言えるでしょう。

このハンセン氏病という皮膚がただれる病気は宗教祭儀の問題を含んでいました。つまり、当時は罪の結果として考えられていたのです。ですから、癒しの判定は、医者ではなくて、律法に従って罪を判断する祭司が行いました。イエス様は病人たちに祭司のところに行くように命じました。その言葉に従った病人たちはその路上で癒されました。エリシャと同じように「行きなさい」という命令だけでイエス様は癒したのです。ですから聖書は神の言葉に従うことの大切さを教えています。

さて、一人だけ戻ってきた、サマリア人は外国人であるアッシリア人との混血が進んだユダヤ人のことでした。純粋なユダヤ人から見るとサマリア人は、汚れているグループに入れられています。しかも彼が皮膚病であったということは、彼こそ神から最も離れた、最も罪深い存在だとユダヤ人たちは判断していたと思われます。

一番罪深く、一番穢れたと思われていたサマリア人だけが大声で賛美しながらイエス様のもとに戻ったのです。「 戻ってくる 」はヘブライ語で「 向きを変えて神のもとに戻る 」という意味があり、まさにユーターンです。また、「 足下にひれ伏す 」はひれ伏した相手が聖なる存在であると認めるときの姿勢です。原語では頭を地面に擦り付けて礼拝したという意味になっています。

一番罪深く、一番穢れたと思われていたサマリア人だけが、イエス様のもとに大声で賛美してやって来てひれ伏し、礼拝出来たという出来事のなかに、ルカ福音書が伝えたい福音のメッセージが隠されています。つまり、ユダヤ人のように自分が正しいと思っている人ではなく、正しくない者、弱い者、病んでいる者が救い主イエス・キリストによって救われるということです。これを経験したパウロは「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント12:9)と書いています。

また、この「ひれ伏す信仰」とは、イエス様にまったく身をゆだねること、自分の人生をおまかせすることを意味します。イエス様は、戻ったたった一人の人に「病気が癒された」とおっしゃったのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言しました。病気や事故や苦難は避けられません。大切なのは、信仰によって救われることです。ライ病だけでなく人類の最大の心の病である罪の問題から救われたというありがたい宣言です。神の方向にユーターンできると言うことはまさに礼拝ではないでしょうか。教会で大切なのは、この病人と同じように大声で賛美してやって来てひれ伏し、礼拝することです。

わたしたちは礼拝においてみ言葉を聞き、日々の生活でみ言葉に従い、その場で癒され感謝して礼拝に来ているのです。この教会には、跪くための台がありませんが、感謝して跪くのが礼拝の姿勢だと思います。イスラム教のように頭を床につけて礼拝する様式もあります。しかし、形ではなく心が大切です。この「神を賛美する」という言葉はドクサであり、頌栄とか「神の贖罪の偉大さを告白する」という意味です。また、最も罪深く汚れていた者に癒しの奇跡が起こり、神を知っていると思っていたユダヤ人に感謝のユーターンが起こらなかったというのが聖書の警告でもあります。第二テモテの日課にも「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と書いてあります。感謝のリターンがあって、信仰の癒しが完成するのです。ですから、わたしたちはみ言葉に従うことによって人生の路上で癒され、教会に来るということが、救い主イエス・キリストのもとに戻ってきて礼拝するということです。ここに礼拝学の意味があります。いつもユーターンして感謝して礼拝させていただきましょう。そしてその感謝を周囲に広げていきましょう。キリスト教信条の一つに「人生の目的は神の栄光をあらわし、神を賛美することである」とある通りです。ルターは今日の日課に関する説教で、「イエス様のところにユーターンして、大声で賛美することがまことの礼拝である」と述べています。わたしたちは二千年前のイエス様のところには行けませんが、家庭でも職場でも教会でも、わたしたちは「まことの礼拝」の姿勢をとることができます。

 

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