宗教改革の教えの核心を学ぶ説教
「幸いとは」 マタイ5:1-6
本日は宗教改革主日です。宗教改革の理解としては、それまでは一般の人々には理解できなかった聖書の本文研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として解釈する場合もあるようです。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰という形で現れたとするわけです。それは、何か新しいものを創造したのではなく、原点に復帰したということです。
八王子教会にいたころの話ですが、八王子駅前のデパートそごうが営業不振で閉店しました。そのあとに、セレオという店が開店しました。その名前はセントラルライン(中央線)とオレンジの造語だったようです。つまりJR系の会社だったわけです。外側は旧そごうの建物を利用しているのですが、内装はずいぶん現代的になり、使いやすく改装されており、顧客のニードに答えるという小売業の原点に返ったような気がしました。宗教改革も、同じではないでしょうか。それは、新しい宗教の発明ではなく、古くて良いもの、人々のニーズにこたえる宗教の基本概念に戻ったわけです。この視点から見ると、わたしたちの人生や教会生活も、神様が与える信仰の原点に復帰する必要があるように思えます。それは、救いであり、一人一人の幸せの実現ではないでしょうか。
さて、今回の福音書の日課ですが、これは有名な「山上の垂訓」と呼ばれる箇所です。その山というのは、わたしも行ったことがありますが、実際には山ではなく、下方にガリラヤ湖を見下ろすことができるカペナウムに近い美しい丘の斜面のことです。そこに立って、イエス様は弟子たちにこの教えを説かれたと伝えられています。人間は幸せであるべきだというのです。それはわかりますが、イエス様の説によれば、「わたしたちは、既に幸せなのだ」ということだったのです。これを聞いた人々は、少なからず驚いたことでしょう。自分たちの生活を見れば、幸せとは程遠い人々もいたはずです。この聖書個所に関しては、ロシア正教会などではこれに5章12節前半にある「幸いなり、~天には爾等の報い多ければなり。」までを加えて9句の構成とし真福九端(しんぷくきゅうたん)と呼び、礼拝などに極めて頻繁に歌われるそうです。一種の賛美頌栄ですね。わたしたちも、信仰の原点に返るならば、イエス様の教えの通りに、ありのままの人生を心から受け入れ「幸いなり、幸いなり、幸いなり」と歌えたら素晴らしいことです。ただし、普通の人にそうすることを要求するのは、少し無理なような気がします。幸せを求めている人ほど、どん底の苦汁を味わっているからです。仏教が教えているように、人生には、生きる苦しみ、病むことの苦しみ、老いる苦しみ、そして死の苦しみが不可避だからです。
教会には色々な人が来ていますが、この「山上の垂訓」をどのように読んでいるか、どのように理解しているかを知れば、その人の信仰の度合いがわかるといわれています。本文の1節を見ますと、イエス様は山に登ったと書かれています。これが、先ほど述べたガリラヤ湖を眼下に見下ろすカペナウム近郊の美しい丘の斜面です。ここには弟子たち全員が登ったわけではありません。しかし、ここは岩山ではなく、広々した斜面の広場でしたので、イエス様が下に立ったら、そこが円形劇場の舞台のようになって大勢の人がイエス様とガリラヤ湖を見下ろしながら、教えを聞くことができたと思います。
ところで、この教えのテーマは幸いであり、幸福ですが、問題はそのように感じる理由です。神を信じる事には罪の意識や神から離れている悲しみが伴うことがあります。その時に、とても幸せだとは言い切れないでしょう。むしろ、自分の罪を感じて、不幸だとか、辛さの思いが先行することでしょう。しかし、そんな時でもイエス様は幸いであると教えました。
ルカ福音書にもマタイ福音書の記事と並行した記事がありますが、二つを比較してみると、マタイ福音書には「心」という言葉が追加されていることがわかります。ルカ福音書には単純に「貧しい人は幸いだ」と書かれています。これはどちらが正しいのでしょうか。ただ、ここで、「心」と翻訳されているギリシア語はプヌーマという言葉であって、正確に訳すと「霊的に」ということです。心が貧しいのではないのですね。霊的に、無力で、信仰もおぼつかない場合のことです。ですから、この状態の弟子たちの立場を見て、「これは幸いだ」とイエス様は判断されたのです。何と不思議なことでしょうか。敷衍して考えれば、正しい人ではなく、罪人は幸いであるという説に等しいでしょう。「悪人正機」説ですね。特に、貧しいというのは、自分には何も持っていないという意味です。霊的にみて、自分には何も持っていないと考えうる人は幸いだ、何の知識も、敬虔さも、霊的な示しもない者は幸いだ、ということです。そこには、人間の敬虔さを中心とした宗教から、神の無条件の愛を中心とした宗教への大転換が暗示されています。たぶん、山上の斜面に集まった群衆は、霊的に貧しい人々だったことでしょう。そこは、ガリラヤ地方の田舎ですし、エルサレムのような宗教中心地ではなく、集まった人たちも農民や商人や漁師だったでしょう。その人たちに、あなた方は幸いだ、霊的に何も持っていないが幸いだ、とイエス様は教えられたのです。そのメッセージに多くの人々が神の慰めを感じたことでしょう。霊的に貧しいというのは、信仰的にも貧しいということだからです。エルサレムの信仰者たちは、神殿での礼拝を誇りに思っていましたし、ガリラヤ地方の人びとの宗教心を軽蔑していました。そこの宗教は、異教の影響を強く受けていたからです。宗教が、人間個人の敬虔さを強調すると、どうしてもこうなってしまします。二千年後の現代でも、コロナ禍によって、キリスト教の伝統的な礼拝生活は壊滅的な打撃を受けました。一か所に密になること自体が悪となったからです。しかし、そのことによって、神殿で礼拝していたエルサレムの信者たちのようだったわたしたちが、ガリラヤの野原に散在して礼拝したイエス様の弟子たちのような立場に置かれたのです。神様のみ業は深いものです。
余談ですが、宗教改革というのは、実は信仰の豊かさにたったものではなく、信仰の貧しさを再発見したことに起因します。「ゼロの発見」言えるし、「貧しさの発見とも言えるでしょう。それまで、自分には救われるための何かがあると思い込んでいたのが当時のカトリック教会の信徒たちでした。それは、善行、断食、礼拝などの人間の敬虔さを基準としたものでした。ところが、こうした個人の敬虔さを追求したルターは、多くの修行の果てに、自分には何もないと痛感しました。そこで、「キリストの贖いのみによってのみ救われる」という初代教会の信仰信条を再発見したのです。まさに、原点復帰でした。ですから、山上の垂訓は人間の宗教的敬虔さや道徳をあらわしたのではありません。むしろ、人間のゼロを示しているのです。人間がゼロの時、それは古い人間性に死ぬときなのですが、その時に神の国はその人に所属し、御国が既に来ているとイエス様は説いたのです。これこそが、初代宗教改革だったと言えるでしょう。コペルニクス的な宗教観の大転換であって、人間を中心として回転していた世界が偽りだとわかり、世界は神を中心として回転していたことが発見されたのです。これはまさに、真福九端(しんぷくきゅうたん)と呼ばれるべきものです。
では4節にある悲しみの場合はどうでしょうか。これは、この世の欠陥を憂いている人のことです。自分の悪、社会の悪、これを悲しく思っているひとです。悪を除こうとするが除けず、無力を感じている人のことです。やはり、そこにはゼロである悲しみがあるでしょう。しかし、聖書には逆説がみられます。こういう人は、逆に幸いだというのです。自分の中では解決できないのが、かえって良いのです。こういう人ほど、多くの慰めを、神の働きのみによって受けるのです。そこには、ゼロとなった自分は存在しません。神の絶対愛しかないのです。ですから、神の救いしかないと実感している人には、既に救いが豊かに与えられており、不幸のように見えても、実は最高に幸福なのだと、イエス様は説かれたのです。
5節の「柔和な人」は、「踏みつけられても忍耐している人」という訳もあります。圧迫されている人々です。社会や、他者からの悪意やいじめ、圧迫に苦しめられている人です。イエス様の前に集まった人々も、実は、ローマ帝国の支配下で、領主の圧政に苦しんでいたことでしょう。わたしたちの自然発生的な問題解決法は、苦しみの原因の除去です。ですから、当時の熱心党の人々は政治的にローマと戦い、その影響力を排除しようとしたのです。ローマ自体をキリスト教化するなどとは思いもよらなかったわけです。こうした排除の思想とか、問題除去の考えは、人間的発想によるものです。しかし、イエス様は神の絶対愛の思想に立っていました。
踏みつけられて、悲しんで、無力で嘆いている人とは、もしかしたら、これはわたしたちの現実の存在を述べているのではないでしょうか。現実の弱さ、苦しみ、閉塞感、希望のなさをとらえたうえで、これは幸いだとイエス様は人々に説いたのです。そして、現代の苦しみを負うわたしたちにも、イエス様は、「あなたがたは幸いだ」とおっしゃってくださるのです。なぜなら、苦しみの中で自分の無力を自覚する人は、地を受け継ぐ人だからです。地を受け継ぐとは、生きている現実が変わるり、ここが、あなたの生きている家庭や社会や学校や職場が、神の絶対愛を実感する世界となるということです。
最後になりますが、「義に渇く」とは、罪を悲しんでいるということです。自分の中には正しさを全く持っていない人のことです。それもまた、宗教改革の原点でした。自分の義によっては決して神の前に立つことのできない人々、それはエルサレムの宗教家たちではなくイエス様の前の群衆でした。救われないはずのものが神の絶対愛によって救われるのです。不可能なことが可能になる、というのも聖書の逆説です。宗教改革自体も当時の社会では不可能なことでした。しかし、神は不可能を可能にしてくださったのです。
神こそヨシュア記24:17にある「守ってくださった方」です。また、無条件の絶対愛で、罪あるものを愛して下さる方です。だから幸いなのです。この神の愛が、わたしたちの罪のために犠牲となって下さったキリストの贖いの福音に示されています。その印が、洗礼であり、聖餐式です。「霊的」な貧困、無力、悲しみ、圧迫、それは、今は辛いけれど、きっといいことになるよとイエス様は優しく約束してくださったのです。結局は自分を含めた人間自身の敬虔さによるのではなく、わたしたちを天地創造の初めから愛し、常に必要なものを与えてくださる神によるのです。だから今、あなたは幸せだとイエス様は説かれたのです。今回は長いメッセージでしたが、ここまで読んでくださった方に感謝します。神の愛の祝福が豊かに降り注がれることを祈ってやみません。