印西インターネット教会

聖書が教える幸せな人生の秘訣を学ぶ説教

「賢く生きる」         マタイ25:1-13

わたしたちの日常生活では蟻はやっかいものですが、聖書では賢い生き物のとして考えられています。たしかに、蟻を観察するとわかります。あるとき、畑で小さなアリが大きな芋虫を運ぼうとしているのを見たことがあります。一匹の蟻にたいしては巨大すぎる芋虫があいてですから、最初はびくともしませんでした。ところが仲間を集めて動かし始めたのです。よく見ると運んで行く方向に樹の枝が落ちていて邪魔になっていました。ここであきらめるかなと思いました。ところが、それでも蟻は協力してその枝を乗り越えたのです。すごいですね。

聖書の箴言というところを見ると、この世に小さなものが4つあり、それはもっとも賢いと書いてあります。(箴言30章)その第一が蟻です。夏の間にパンを蓄える。第二は岩だぬきであり、安全な岸壁に住んでいる。第三はいなごで、王様はいないが、いつも集団で規律ある行動している。第四はヤモリで、弱いが安全な宮殿を住居としている。

そして子供たちも、わたしたちの社会では小さい存在です。でも、イエス様は「天国は子供たちのものである」(マルコ10:14)といわれました。どうして、小さなものが賢い存在であり、天国の持ち主ででもあるのかを、わたしたちは学ぶ必要があるのではないでしょうか。

旧約聖書のホセア書には、神の言葉として「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」と書いてあります。神さまは、幼くて何もできなかった子供のようなイスラエルを愛したわけです。大人の世界では、その人が立派なことをしたとか、成績が良い、働き者であるなどの功績で評価し、称賛します。ところが聖書には、まだ幼くて何もできない子供のようなイスラエルを神さまは愛してくれたと書いあります。人間の常識的な考えとは違う思考形態がみられるわけです。神の考えともいえるでしょう。そして、本当の愛というのは、相手が素晴らしいとか素晴らしくないとかに左右されないのです。愛は業績評価ではないからです。神さまがイスラエルも造ったし、わたしたちも神様の被造物です。手芸が好きな人は、自分の作品に愛着を持っているはずです。また、大切にすると思います。店で買ってきたものとは違います。わたしの書斎にある牛乳パックで作った筆立ては、娘が幼稚園のときに造ったものです。1988年の作であり、お父さんへのプレゼントと書いてあります。あれから35年たった現在でも大切に使っています。同じように、わたしたちは神様の大切な作品です。だから、神さまは地球上では小さな存在にすぎないわたしたちも大切にされ、天国はお前のものだよと言ってくださるのです。

これは昔話ですが、ドイツに貧乏な靴屋さんがいたそうです。貧しくて朝から晩まで遊ぶこともなく、家族を支えるために働き続けていました。ある時、大学生が通りかかって、「おじさんはいつも楽しそうにみえるけど、どどうしてなの」、と尋ねました。すると彼は、こう見えてもわたしは立派な王様の息子、つまり王子なんですと答えました。それを聞いた学生は、「ヒャーとんでもない、あなたは気が狂っているよ、だから貧乏でも苦しくないんだ」とつぶやいて去っていきました。一週間ぐらいして、学生が再び靴屋さんの前を通りかかると、馬鹿にして、「おーい、王子様、ご機嫌いかがですか」と言ってからかいました。その時、靴屋さんは、「わたしが言ったことの理由はこの本に書いてありますよ」と言って、学生に聖書を見せました。また言いました。「わたしたちは、全世界の造りであり、王の王である神様に愛される子供であり、王子、王女なんです。だから、神様に頼るものは働き続けてもうれしいのです。」そして、このようにして、靴屋さんは大勢の学生を神様に導いたそうです。靴屋さんは学生のように勉強はしてなかったけど賢かったわけです。きっと、神様からの知恵を与えられていたのでしょう。

つぎに、今回のマタイ福音書の日課を見ましょう。先ほど、賢い生き物として蟻のことをいいました。ここでは、たとえ話ですが、天国のことが書かれています。賢い人が天国に入ることができて、愚かな人は天国に入れなかったのだというのです。子供たちは既に王子、王女として天国に入っています。ただ、少し大きくなった人は簡単には入れません。だから、イエス様は、みんなが賢く生きて、天国にはいれるように教えたのだと思います。

これは天国の例ではないですが、賢くふるまってサーカスを見ることができた貧しい少年がいました。ある外国の村にサーカスがきました。お金に余裕な家の人たちは着飾って家族でサーカスを見にいきました。ハンス少年の家は貧しくて親も早くから死んでしまい、親戚の家で育てられていましたから、サーカスの入場券を買うお金などはありませんでした。でも、ハンスは、象の曲芸や空中ブランコなど見たくてたまりませんでした。そこで、サーカスの大きなテントのところまで行きました。どこかに、入る隙間がないかと思ってがしたら、一か所ありました。中からは、拍手やキャーという驚きの叫びが聞こえてきて、ハンスもわくわくしました。さっそくその隙間の穴から中に潜り込もうとして、体が半分はいったところで、警備員のおじさんが足を捕まえ「だめだめ、こんなところから入ったらだめだよ。ちゃんと入場券を買ってはいりなさい。」と言われて追いかえされてしまいました。ハンスはとても残念でした。次の日もハンスは出かけました。その日は違った警備員のおじさんがいました。ハンスは知恵を振り絞ってどうしたら入れるかを考えました。そして、例の穴のところに走って行って穴に足を入れて待っていました。すると警備員のおじさんがとんできて、「こらこら、こんなところから出たらだめだよ」といって中に押し込んでくれました。おかげで、ハンスはサーカスを楽しむことができたそうです。

これは一つのたとえ話です。ルカ福音書16章には、解雇されそうになった会計係が勝手に商売相手の借金を軽くして恩を売ったことが賢いとされています。それを語ったイエス様の真意は「富と神に仕えることはできない」であり、所有欲を放棄して神の恵みのみを信じて生きる知恵です。幼子のこころだとも言えます。

前例のハンスにとってサーカスは天国のようでした。子供は既に天国に入る資格を持っています。しかし、外にいる貧しい人が高い天国の入場券を払って入ることができるのでしょうか。そこで、イエス様は賢い女の人が5人いて、賢くない人が5人いたと話します。みんなランプは持っていました。これは結婚式の準備のことです。結婚式会場が天国にたとえられているのでしょう。夜にお祝いをしたのですね。だから、ランプは必要です。愚かな人たちは油が足りなくなりました。きっと持っているだけでどうにかなると思っていたのでしょう。賢い人たちは今必要ではなくても、必要な時が来るだろうとおもって、ランプだけではなく壺に予備に油を入れて用意していました。そして、結婚式開始は遅い時間になりました。愚かな人たちは、こんなに遅くまで待っていなければならないとは予想していなかったのでランプの油は燃え尽きていきました。予備の油をつがないと足りなかったわけです。

皆さんはどう思いますか。結婚式が予定通りに始まって予定通りに終わるなら、ランプの中の油だけで十分だったはずです。ところが、自分が思っていたこととは違うことが起こったわけです。長く待っていたら油が足らなくなってしまったのです。余分の油を壺に持っていた5人の賢い人に聞いてみたけど、その人たちも、自分のランプ用の油しかありませんから、分けてあげられませんでした。だから、店に行って買ってきてくださいということになりました。彼らが買いに行ってる間に、結婚式は始まり、戻ってきた賢くない人たちは、結局、結婚式(つまり天国)に入ることができませんでした。

イエス様は何を教えたかったのでしょうか。天国はわたしたちの予想を超えて、思ってもみない方法と、考えもつかない時にやってくるということです。だから、いつも用意していなさいということです。大人が天国に入れないのは、靴屋さんの話を聞く前の学生のように、被造物であるわたしたちを愛してくださる神を信じていないからです。信じている証拠は、靴屋さんと同じような喜びです。これは旧約聖書のアモス書にも書いてあります。あなたたちは、「主なる神を求め、生きよ」(アモス書5章4節)ほかのところへ行って助けを求めるのは間違いです。地位、仕事、健康、財産、これらを第一にすることが天国をへの入国を阻む要素です。幼子が天国に入れるのは、彼らにとって大切なのは親の愛情であって、地位、仕事、健康、財産には無関心だからです。そうしてみると、あの靴屋さんは、大人でありながら、幼子の心を持っていたということですね。聖書は、わたしたちが何も所有しない幼子のように、しかし、親の愛に包まれて幸せであるように、いつ世の終わりが来ても準備ができている者として生きなさい、知恵を働かせなさいと命じていると思います。

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