「あなたは既にこの世に勝っている」 ヨハネ16:25-33
今日の箇所は、イエス様が十字架にかかる前に弟子たちに語った言葉です。最後の晩餐の席での言葉です。25節でイエス様が「たとえ」を用いたというのは、少し前の部分に出てくる出産の苦しみと誕生の喜びの例のことです。それは、悲しみが喜びに変るという願ってもない状況展開についてです。さらに深読みすれば、それは、これからイエス様に起こる十字架の苦しみと、復活の喜びを予兆し、この世で重荷を負うわたしたちにも、大きな励ましをあたえているというわけです。ただし、それを、自分のものとするためには、聖書を読んで把握しなければなりません。
27節以下には、イエス様が神のもとから命を受けて受肉した人であるということが書かれています。信仰の基本がここにあると言われています。普通に考えると、信仰とは、自分の確信、信念、一つの宗教認識にあると誤解されやすいものです。聖書の教える信仰は違います。だから、把握しにくいわけです。聖書の教える信仰は、自分自身を出発点としないのです。昔の哲学者が言ったように「エゴ・スム」(我思う故に我あり)ではないのです。考えてみれば、それは宗教を知らない人にとっては未知の世界といえるでしょう。だって、誰でも自分の考えで信仰しなければと考えるからです。聖書は違います!
もし、わたしたちが信仰の出発点を自分自身にしてしまうと、自分の敬虔な意識が薄れてしまえば、信じられなくなったと結論してしまはずです。これが、自分信仰の弱点です。そこには、神が介在していません。しかし、古代から信仰は受肉(救い主の生誕)に関係しています。
ある上智大学の教授は、イエス様は受肉した神のイコン(神の似姿)と同じであると述べました。わたしたちが普段使っているパソコンの画面の印も、アイコン(イコン)ですね。そして、イコンをクリックすると内容が表示されます。ただ、受肉という神のイコンは決して楽しいだけのものではなく、痛みや苦しみの満ちたこの世の世界をも反映しています。この世の世界とつながりのないイコンならば、救いには役立たないからです。これまで天に召された方々も肉の世界で苦しんだ人たちでもあります。彼らも、わたしたちと共通のイコンを持っていました。イエス様はまさに、この肉の苦しみの世界に来て、共通のイコンを持つために生まれた方です。それが十字架の意味であり、クリスマスの意味でもあります。
昔のたとえ話に、こんな話があります。ある人が古井戸に落ちてしまいました。第一に通りがかった人は、気を付けなさいと井戸の上から諭して、通り過ぎました。第二の人は、上からロープを垂らして、あとは自分で上がってきなさいと、傷ついた人に命じて行ってしまった。第三の人は、井戸の底に降りて傷ついた人を背負って担ぎ出したのです。この比喩はわかりますか。第一の例は、人に正しい生き方を教える道徳です。第二は、自力の悟りを教える宗教です。第三は、人間の悲惨かつ無力な状況を理解した救い主の宗教です。そして、暗い穴の底で、たった一人で苦しむわたしたちのために、降りてきてわたしたちを背負ってくれた人は一体誰だったのでしょうか。
それは、高貴な教えを説いた孔子や孟子、あるいは先生のような人でしょうか。憐みの蜘蛛の糸をたらし、自分で修行して登ってきなさいと説いたお釈迦の様な人でしょうか。苦しみの暗底まで降りてきたのは、受肉したイエス・キリストではないでしょうか。ですから、信仰とは抽象とか概念ではなく、神ご自身がイエス様の姿(イコン)において、苦しみの現場に降りてくださったこと、わたしたちの苦しみの淵に共におられることを信じる印(イコン)でもあります。もし、今日、これを読んでくださっている「あなた自身」苦しくて死にたいと思っていたら、死んでもいいのです。救い主は死の闇の果てまであなたと共にいるでしょう。また、生きようと願ったら、それもいいでしょう。これからの人生でも、多くの悩みや苦しみが襲ってきますが、あなたは救い主によって守られています。救い主の姿を知ることは、苦難を打ち砕く永遠の信仰を得たことになるからです。信仰とは、自分の思惟をこねまわすことではなく、神の救いのイコンを信じ、単純にクリックすることだからです。必ず、今までとは違った救いの画面を見ることになるでしょう。
信仰の、具体例もあります。ある本の著者である金沢泰裕牧師のことです。金沢先生は、驚くような回心を経て、それまでのヤクザの生活を捨て、神学校を行き、牧師となったのです。教会開設して路傍伝道して4年で300人もの困った人を助けました。ミッション・バラバという団体を設立しました。(ちなみに、バラバとは聖書に登場する犯罪者の名前です)高校中退した彼が、路傍伝道し、家族4人を支えながら、通信教育で学校を卒業し、聖書学校を卒業し、改革派神学校を卒業し、アメリカの大学の実践神学の博士号をとられたのですが、信仰を与えられたのはお父さんの病気がきっかけでした。やくざ生活に失敗して、指を詰めさせられ、殺されそうになって逃亡していた時に、既にクリスチャンだったお父さんが病に倒れ意識不明になりました。病院に行くと牧師さんが来て祈ってくれたわけです。そのとき、心臓も既に止まって全く意識不明だった父親が胸の上で手を組み祈りに涙を流したそうです。これは、小さな奇跡といえるでしょう。勿論、その後、父親は死亡しましたが、この体験が、彼を変えたのです。その後、おそるおそる教会に行ってみると、説教でイエス様がわたしたちの罪のために身代わりになって死んでくださったと聞き、だから自分のような極道者でも、罪はすべて赦され、生まれ変わることができると信じることができたのです。それは、自分の力で努力して得た信仰ではありませんでした。苦しんでいるときに、不思議な体験によって、暗黒の沼底から担ぎ出されたのです。わたし自身にも同じような経験がありますから、このことはよくわかります。
その後、金沢先生は、個人の力では絶対不可能のような、覚せい剤とか、様々な麻薬の中毒からの回復、犯罪から立ち直りをおこない、年とってからの難しい勉強をも克服して、入れ墨や詰めた小指も障害とせずに、人生に迷った人に福音を伝えていったのです。金沢先生の説教を聞いて、祝福をうけたとき、その手の小指が短くなっていたことが印象的でした。
さて、聖書に戻りますが、30節で弟子たちは、信じますと告白しています。それは、まだ、自分の力や努力を信じるような未熟な信仰でした。でもイエス様はそれを受け止めています。そうして信仰は、試練を受け、吹き消されることがあります。それでも、彼らの観念の信仰ではなく神が与える信仰のイコンが来るように、受肉(イコン)の中に根を持つ信仰、苦しみと流転の中に根を持つ信仰、屈辱と悲しみと裏切りに堪える信仰が与えられるようにとイエス様は、彼らのために愛をこめて心から祈って下さったのです。
人生には、苦しみは波のように押し寄せるでしょう。何度も何度も起こるでしょう。ルターも語っています。平安は一時であり、試練が来ることは避けられないと。津波も第1波だけでなく、第2波が続き、すべてを破壊していくでしょう。しかし、イエス様は既に決定的に勝利しているのです。「わたしたちに勝利を賜る神に感謝する」(第一コリント15章57節)と書いてあります。「愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ書8章37節)ともあります。また、「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」(第一ヨハネ2章14節)とも書いてあります。わたしたちは、こんなに弱いのに、わたしたちを愛し、命をささげてくださったイエス様の十字架の贖いを信じる信仰によって、既に勝っていると聖書は告げているのです。
わたしたちの人生はそうした勝敗がわかれる一つの競技だと考えてもよいのです。パウロも、言っています。「あなた方も賞を受けるように走りなさい。わたしたちは朽ちない冠を得るために節制するのです。」(第一コリント9章24節以下)この戦いは、死の力、罪の力、絶望と空しさとの戦いなのです。それに勝利する方法は、自分自身にはありません。イエス・キリストにおける神のイコンが勝利のしるしです。神がそれを勝ち取ってくださったと聖書は語ります。イエス様は「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました。
初代教会の神学者アウグスティヌスの母モニカは信仰深く、アウグスティヌスが放蕩息子であった時にも祈り続けていました。アウグスティヌスはその祈りに支えられて回心し立派な働きをしました。その母のモニカは亡くなる時、「わたしの死を悲しむには及ばない。ただ、主の聖壇の前でわたしを思い起こしてください」と語りました。モニカもまた、キリストの愛のイコンを受けて贖われた人だったのです。何度も言いますが、人は自分では救われません。父親の臨終の祈り、母親の愛の祈り、友人の祈り、それはイエス様の祈りの受肉(開かれたイコン)なのです。それによって信仰を与えられます。もうすぐ来るクリスマスは、死を滅ぼし勝利を与えてくださったイエス・キリストが共にいたもうことを覚える大切な時であり、キリスト教では、今年の12月3日から始まる待降節が、新しい一年の始まりです。
新しい年にも、悲しみはあるでしょう、しかし「今からのち、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(ヨハネ黙示録14章13節)「主を信じなさい、そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)とあります。わたしたちがたとえ弱い信仰であっても、自分の信仰ではなく。神のイコンを受けたことは、時空を超越して、過去、現在、未来を通して、家族も、友人も、神の愛の受肉の神秘によってキリストの勝利に入れられるだろうと約束されているのです。受肉の神秘とは古井戸に下ってくださり、愛をもって罪と死から引き上げてくださったキリストの姿に、やがては自分自身もイコンとして変えられていくという恵みのことです。わたしたち自身は弱くていいのです。すでに勝利は与えられているからです。それを信じるというのは、アーメンと言って受け取るということです。あなたは既にこの世に勝っています。