今週の説教

神の平和を求める説教

「神の授ける知恵」      ルカ21:5-19

小さな生き物でも知恵があるものです。ある講演会のポスターを剥がしていましたら、紙と電柱の間に小さなコオロギのような虫が隠れていました。寒さをしのいでいた訳です。可哀そうなことでした。あの虫は必至で冬を過ごす場所をさがしてポスターの裏にたどり着いたのでしょう。

知恵と言えば、旧約聖書の箴言があります。「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが夏の間にパンを備え,刈り入れ時に食料を集める。」(箴言6:7~8)ここでは神が造った自然のなかで、人間が一番賢いわけではないと述べられています。確かにそうかもしれません。

今日は、教会暦最後の日曜日です。いわば一年間の最後の締めくくりです。わたしたちは過去の一年を振り返り、これからの歩みを考えたいものです。聖書の日課も、「終末の徴」の個所です。第一にイエス様が、神殿の崩壊を預言したものです。当時の世界の7不思議に入れられるくらいに、エルサレムの神殿は壮大なものでした。アブラハムがイサクをささげようとした山の斜面に造られたものですが、土台だけで高さが30メートル、長さ500メートル、幅250メートルでした。その上にまた神殿の建物が数十メートルそびえているわけですから、古代の人々は驚嘆したのです。彼らは豪壮な神殿を見て、とくに見事な石垣に感動していた様子がうかがえます。神殿が堅固であるということは彼らの信仰と生活の堅固さの徴でした。従って見事な石垣を見て彼らは彼らの生活基盤の確かさを確信したのでしょう。しかし、これもまた人間の知恵の産物です。イエス様はこの壮大な建造物を眺めて、崩壊を予告しました。その通りになりました。現在では土台の一部しかのこっていません。神殿の最後をとおして、わたしたちは今日死んだらどうなのかを考えたいものです。

次に、7節以下では、弟子たちの疑問が記録されています。弟子たちとしては、そんな悲劇が起こるなら、それはいつなのかを知りたいと思うのが心情でしょう。そのとき、イエス様は言いました。「そういう暗い出来事はいつの世でも必ず起こるに決まっているが、おびえてはならない」という励ましです。デマを流す人間が現れる。そうした偽りのリーダーは、人を脅かす手法を用いる。人々の信仰を惑わし、人間的にものを見るように仕向けます。これには注意したいです。エデンの園で、サタンの化身(アバター)である蛇が、木の実を食べても「決して死ぬことはない」と嘘をいいました。神の言葉を信じない方向に持って行ったのです。わたしたちは、神の言葉に立たなくてはならない。人の意見に振り回されているなら、やがて信仰を失ってしまいます。

イエス様は、信仰的な立場から10節以下の世の終わりの現象を語りました。そこに書いてあるのは、争い、天変地異、などの現象です。また、その前に迫害があると予告しています。イエス様は既に御自分の十字架だけでなく、弟子たちがイエス様を信じているという理由で裁判にかけるという事を言ったわけです。ただ、ここでイエス様がいかに信仰に立ったかたなのかがよく表現されています。そうした迫害と辱めの時は、実は良い機会なのだというのです。これは信仰に立たない限り分からないでしょう。自分に不利なことが実は、神様のことを証しするよい機会なのだというのです。余りにも理不尽で、余りにも残酷な仕打ちを、初代教会の信徒たちは実際に受けたのですが、今日のイエス様の言葉を前もって聞いていたものですから、それに耐えることができたのです。また、そうした最悪の状況すら、伝道の証しと、神の愛を告げる良い機会なのだと信じました。有名な言葉ですが、ルターが裁判にかけられ、ヴォルムス国会で弁明の立場に立ったときに語った言葉が残されています。

「教皇の法や人間的な教えが信仰者を圧迫し悩まし苦しめた。わたしは自分を聖人に仕立てあげるつもりはないし、自分の生き方を弁護するつもりもないが、弁護するのは、キリストの教えです。わたしの良心は神のみことばに捕えられています。なぜなら、わたしは教皇も公会議も信じていないからです。わたしは自分の著作を取り消すことも、取り消すつもりもありません。神よ、わたしを助けたまえ。わたしはここに立つ。わたしはほかのことを成し得ない。」ルターの行ったことも、まさにイエス様の預言どおりでした。そしてこのルターの発言は、ハマスの指導者の子として生まれながらも、そこでハマスの非人権的なやり方を目撃してきて、国連でその廃絶を訴えた人が最近行った訴えにとても良く似ています。彼が良心に従って身の危険を冒して発言したように、ルターもこの世の権威を怖れないことを、勇気をもって表明したのです。

さて、14節の部分を見てみましょう。人間的な考えでは、裁判にかけられるまえに、色々考えるでしょう。裁判員も考えています。しかし、イエス様の信仰的な態度では、かえって人間的な考えを捨てて、弁明の準備をしないのです。いわば無防備です。やられっぱなしの態度です。しかし、そこに神のみに信頼する態度が示されています。イエス様のこの教えを実行した一人が、インド独立に尽くしたガンジーです。当時、インドはイギリスの植民地でした。ガンジーの生涯を描いた映画を見ますと、支配に反対するガンジーの教えに従う民衆は、イギリスが横取りした工場を解放するように求めてデモをしました。イギリスは武装警官で工場を守りました。工場に向かって行進してくる民衆をこん棒で殴り倒していきます。何人が倒されてもやめません。血の海です。最初はイギリスの肩を持っていたマスコミもこの惨事を目撃して、民衆を支援し「紳士の国であるはずのイギリスがこのような残虐行為をおこなっている」と報じました。イエス様の教えを信じたガンジー、そしてガンジーの教えにしたがった民衆。最終的に勝利したのは最も弱い民衆でした。歴史を振り返ってみますと、ハマスの残虐行為のようなことを、イギリスも、中世のローマ法王庁も行っていたのですね。また、同じ意味で、太平洋戦争時の日本軍の残虐行為も忘れてはならないでしょう

15節で、イエス様は「どんな反対者も対抗も反論もできない、言葉と知恵を与える」と教えました。それがルターに起こりました。初代教会でもおこりました。この迫害は、家族友人からも受けるものです。殺される場合もあります。人間的に考えたら、みんなから捨てられ殺され、憎まれるような宗教はご免こうむりたい。そう思うでしょう。しかし、イエス様の教えは人間の考えを越えています。18節以下です。髪の毛一つなくならない。イエス様は大丈夫だと約束しています。失われるものはなにもない。忍耐によって命を勝ち取る、その知恵ある姿勢をとりなさいという教えです。

虫でも、蟻でもそれなりの知恵があります。しかし、どんな動物も、迫害や危険には逃げるか牙をむくものです。新約聖書をみますと、人間に神様が与えた知恵は、最高のものです。最悪の状況の中で、つまり殺され憎まれ、こん棒で叩かれても忍耐していく。そして、神の命を勝ち取ることです。

これが人生の使命です。神を信じること。信じることに伴う迫害に耐えること。どう対応するかの知恵を授かること。そして、永遠の命を受け取ることです。ルターも、永遠の命に希望をもって喜びの人生をおくり、感謝のうちに死にました。わたしたちも、もう、大丈夫です。神さまに導かれたら、そこに救いがあります。パウロも今日の日課で言っています、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなた方は知っているはずです。」 主に結ばれているなら安心しなさい。喜びなさい。あなた方は幸いである。そうイエス様は教えました。教会暦の終わりに、人生の終わりを思い、神の変わらない存在と、永遠の希望をあたえる神に思いをはせ、この世に平和をもたらす知恵を授かりたいものです。

 

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