今週の説教

菊川ルーテル教会伝道説教

待降節第1主日  説教題「振り向いたらアカン」      マルコ13:24-37

今日の説教題は「振り向いたらアカン」です。イエス様も、「鍬を手にかけてから後ろを振りかえるものは神の国にふさわしくない」(ルカ福音書9章62節)と言っています。ポイントオブノーリターン、つまり引き返すことのできない地点というものがあるわけです。かなりまえの話ですが、もう後ろに戻れないということを体験したことがあります。わたしが板橋教会の牧師をしていたころでした。ある夏の朝早く目覚めてしまい、そのまま夢遊病者のように、一番電車に乗って秩父の三峯神社側から雲取山に登りました。この山は学生時代に登ったことがありましたが2千メートル以上の山です。登山は若い時より困難で、やっと頂上まで着いた時には既にお昼を過ぎていました。板橋を出てから7時間以上かかっていたわけです。そのまま同じ道を引き返したのでは、その日のうちに帰れないと思いました。まさに、ポイントオブノーリターンでしたね。そこで道もなだらかな奥多摩方面に下山することにしました。しかし、これが大変でした。暗くなってくると、山の斜面は真っ暗なのです。急に出かけたので懐中電灯もなく、登山コースを見つけながら歩くのがやっとでした。ふと、遭難という言葉が頭をよぎりました。もし秩父側におりていたら、そこには昼間でも暗い森林がありますから、歩くのは絶対無理だったでしょう。前に行くしかないのです。暗い中、山道を辿りながら、奥多摩側の鴨沢のバス停について光を見たときは本当にホッとしました。そのときに頭に浮かんだ聖句は、「光のあるうちに光の中を歩きなさい」(ヨハネ福音書12章35節)でした。これはトルストイの小説の題にもなっていますね。ちなみに、わたしが気まぐれで登った雲取山の縦走路は2日間のコースでした。今日洗礼を受けるお二人も、人生には暗い道があるでしょう。迷う時もあると思います。そんな時にも、神の導きという光があれば大丈夫だと思います。

さて、「鍬を手にかけてから後ろを振りかえるものは神の国にふさわしくない」という言葉に関連した出来事を、聖書の中に探しますと、創世記にソドムとゴモラの滅亡の話があります。その町にアブラハムの甥であったロトと奥さんが住んでいました。彼らは神のお告げを聞いて、一緒に町を脱出しました。しかし、その時に神は、「命懸けで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)と命じていたのです。これも、神の「振り向いたらアカン」だと思います。

しかし、ロトの妻はつい後ろを振り向いてしまいました。そして火砕流に巻き込まれて、塩の柱になってしまいました。この場所は濃い塩分で有名な死海の近くです。似たような逃げ遅れの被害は、雲仙の噴火の時の火砕流でも起こっています。火ではないですか、大震災の津波の時に、家に置き忘れたものを取りに戻った人も被災しています。それを、第三者が警告するのは簡単ですが、本人としては、どうしても戻りたくなってしまうものですね。ロトの妻も後ろに大切なものを残してきたに違いないのです。わたしが、別府教会にいたときに似たような経験をしました。あるとき大雨で、低地でもないのに斜面をものすごい量の水が流れてきて教会が浸水したのです。多分60センチぐらいの冠水だったと思います。すると、教会の事務所に置いておいた卒業写真や写真帳が水に浸かって溶けてしまいました。お金なら、働いて稼げばいいわけです。でも卒業写真は違います。学生時代の思い出が詰まっています。荒井由実、作詞作曲の卒業写真という曲がありますね。あれですよ。「悲しいことがあると。開く皮の表紙、卒業写真のあの人は、優しい目をしてる」卒業写真という過去を失ったことは悲しかったですね。戻って取り戻すことができるなら、もどっていただろうと思います。それなのに、イエス様は、「鍬を手にかけてから後ろを振りかえるものは神の国にふさわしくない」と言っています。どうしてでしょうか。

さて、今日は待降節の第一主日であり、教会暦では一年の新しい始まりの日です。洗礼を受ける方には、新しく神と共に歩みだす人生の誕生日でもあります。過ぎ去った一年、あるいは過ぎ去った過去の出来事を振りかえっては、アカンとイエス様は諭しています。たぶん、それはわたしたちの幸せに結びつかないのでしょう。反省してもいいけれど、過去を悔やむのは、神の御心に反しています。過去も神の御心と無関係ではなく「一羽の雀さえ、神のお許しがなければ地に落ちることはない」(マタイ福音書10章29節)と書かれています。ルターはこう言っています。「あなたがたは喜びをもって、最後の日を待つことができる。そして、裁きを恐れることはない。なぜなら、神はあなたがたを選んでくださったからだ。」この世の生も死も、神様が選んでくださったことなのです。ですから、ルターも罪多き過去の時代ではなく、神に選ばれ救われた自分が導かれていく前の方を見つめていたのだと思います。わたしも、雲取山で引き返していたら遭難していたかもしれません。神に導かれて、奥多摩の鴨沢のバス停まで降りられたのかもしれません。

イエス様は天体にも異変が起こり、星も落ちてしまうことを預言しました。それは、人間が頼りにしている地上の存在基盤が揺り動かされ消え去るという意味でしょう。ロトの事件は3千年以上前の出来事でしたが、御嶽山の噴火は2014年の9月27日でした。実は、その年御岳山に登りたいと思っていたところでした。倉庫に入って助かった人の手記をみると、そのものすごさがわかります。夜でもない全くの暗黒に包まれ、熱い硫黄ガスに囲まれたのです。外の人は噴石やガスで死にました。爆発から火砕流まで10数秒でしたが、この人はお昼を食べている時に偶然に倉庫の戸が開いているのを見て覚えていたから避難できたのです。昼間でも暗くなってしまうことを、わたしも経験したことがあります。千葉県でものすごい雹の被害があった時です。昼間なのに空が厚い雲で真っ暗になり、ゴルフボール大の雹が降って地面は真白、車はボコボコになりました。忘れられないですね。

それはそうと、日課の24節にある、太陽が暗くなり、星が落ちるということは、まさに地球規模での爆発の象徴です。実は、災害だけでなく人間が暗黒に包まれ、大切にしていたものが失われることは、神の救いの栄光が現れる前兆でもあります。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(第二ペテロ3:8-13)と書いてある通りです。過ぎ去っていく古いものと、過ぎ去らない新しいものが入れ替わるときがあるわけです。過去にはグッドバイ、未来にはウエルカム。ですから、信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)、と書いてあるのです。

人生の先のことはわかりません。これからも、辛い事、しんどい事、やりきれない思いの時がきっとあるでしょう。そんな時こそ、「ああすればよかった、こうすればよかった」と「振り向いたらアカン」のです。「アキラメキレヘン」はだめ、「振り向いたらアカヘンノヤ」が正解です。

最後ですが、外国の子守唄で「わたしの試練」All my trials Lord という曲があります。それはキリスト教に根ざした、バハマ諸島の民謡で、ジョーンバエズが歌い、ひろく知られるようになりました。それはもう息を引き取ろうとしているお母さんが自分の子供たちに心配しないように告げる内容です。その歌詞が信仰心をあらわしているので紹介します。

「静かにしてね、小さな子供たちよ。あなたたちのお母さんは死ぬために生まれたのだよ。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。ヨルダン川は冷たく濁っている。それは確かに体を冷やすけれど、魂を冷やすことはできない。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。わたしの小さな本には3ページしかない。でも、全てのページに解放について書いてある。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。もしお金で生きることが買えるなら、お金持ちだけが生き、貧乏人は死ぬでしょう。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。天国には一本の木が茂っている。巡礼者はそれを命の木と呼んでいる。主よ、わたしの試練はすぐに過ぎ去ります。」

世の終わり、人生の終わりは、実は救いの完成の時です。ロトの妻のように振り向いたら失敗するのです。「見よ、わたしは選ばれた尊い要石をシオンに置く。これを信じるものは決して失望することはない。」(第一ペトロ2:6)わたしたちはまだ見ぬ未来に向けて救い主を信じ、前進することによって清められます。振り向いたらアカン。試練の歌に暗示されているように、十字架で死ぬために誕生された方、主イエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマスです。このことを忘れずに感謝して、クリスマスを迎えたいものです。

 

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