閑話休題

愛するとは、忘れないで覚えていること

アメリカのカントリー・ミュージックで有名だった黒人歌手で、ミシシッピ・ジョン・ハートという人がいました。ギターの弾き方が独特でした。そして、彼の歌った曲の中に「DO LORD REMEMBER ME」という曲があります。自分が試練の中にいるときにも、わたしを忘れないでくださいという意味です。内容としては、20世紀初頭の黒人スピリチュアルを想起させるものですが、人種差別の中で、信仰心のみを拠り所とした黒人たちの気持ちがあふれている曲です。この曲は、「DO LORD LOVE ME」(主よ私を愛してください)ではなく、忘れないでくださいという控えめな表現になっています。しかし、これが、意味深いことだと思いました。愛というのは、しばしば、感情的な要素が含まれているがゆえに、発生したり消えたりしがちなものです。しかし、忘れないで覚えているとは、人間関係の根底にある絆ではないでしょうか。これは、神と人間との関係にも言えることです。わたしたちの社会でも、年賀状を送ったりするのは、それが一年に一回のことであっても、「忘れないで覚えている」ことの証しではないかと思います。日本文化を理解しない昔の宣教師たちによって、仏教の仏壇は偶像礼拝のレッテルをはられ、廃棄の対象とされましたが、それも先祖を忘れないでいることと解釈すれば、聖書の中の系図と同じことです。神の愛とは、ギリシア語でアガペーであり、人間の情愛とは違った用語になっています。何故なら、この神の愛こそ、わたしたちがどんな状況に置かれていても、わすれないで見守ってくれる愛だからでしょう。ミシシッピ・ジョン・ハートのように、こうした神の愛への信仰心を持っている人は幸せです。彼のしみじみした曲を聴いていてそう思いました。神は預言者イザヤにこう語りました。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか。たとえ、女たちがわすれようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49章15節)愛するとは、忘れないで覚えていることです。そして、驚くことには、この記事を偶然読んでくださっている「あなた」は、神に覚えられている自分を発見する機会を与えられている方なのです。

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