印西インターネット教会

クリスマスの喜びのプレゼントを受け取る説教

「不思議な友情のクリスマス」

世の中には色々な試練があります。戦争や自然災害があります。将来には、宇宙規模の災害も起こるでしょう。救い主、イエス・キリストが生まれた世の中もある意味では同じ困難な時代でした。それは、2千年前のローマ時代でした。その社会ではローマは繁栄し皇帝が力をふるっていましたが、支配された国々の弱い者は奴隷にされていました。自由を失っていました。日本では奴隷はいませんが、ローンや教育費、医療費などの経済の負担が重くのしかかっている点では、まるで奴隷の足かせのようです。でも、みんなが経済の不況のもとで苦しんでいるわけではありません。ほんの少しの年金で生きている人もいれば、年収が数百億円のスポーツ選手や、資本家がいます。貧富の差もますます激しくなっています。同じ人間なのに、どうして、ある人だけが他の人と違って恵まれた生活をしているのでしょうか。ただ、今は裕福でも、すべての人生に病気があり、老いがあり、別れの寂しさがあります。経済的に裕福であっても、病気から自由な人はひとりもいません。健康であっても家族の問題から自由な人はいません。すべての人に何かしらの重荷があるというのは事実です。

こんな時にこころから語り合える友達がいたらどんなに心が軽くなるでしょう。聖書には、イエス・キリストは罪びとの友達となってくださったと書かれています。キリスト教神学において、罪とは、神から離れて孤独になり、人間の中でも孤独になっていることです。大勢の人がいても、家族がいても人は孤独かもしれません。わたしの横浜の伯父は、とっても優しい人でした。子供のころ夏休みには、埼玉から横浜に遊びに行くのが楽しみでした。そのころは珍しい本場の中華料理をごちそうしてくれたし、いつも笑顔で迎えてくれたからです。父親のいない私には心の支えになるようなひとでした。でも、伯父の家では子供が6人いました。家では輸出用のハンカチの内職を家族でしていました。家計は苦しかったようです。伯父が亡くなってから聞いたのですが、伯父には事業の失敗からできたたくさんの借金があったそうです。でも、それを家族に話せないまま、自分一人で重荷を負っていたのです。クリスマスにお生まれになったイエス様は、このように一人で苦しむすべての人の友でした。

わたしたちは現在、特に多くの苦しみは感じないかもしれません。聖書のソドムとゴモラの話をご存じでしょう。災害が来る前にロトは家族や近所の人たちに危険を知らせました。でも多くの人は冗談だと思ったと書いてあります。苦しみとか、試練は普通の生活をしている人には冗談にしか聞こえません。でも、事業に失敗すること、仕事をなくすこと、健康を失うこと、喜びを失うこと、目的を失うこと、すべてを失うこと、それは現実の問題であって冗談ではありません。新約聖書のローマ書には、悟る者はいない、皆が迷っている、その道には悲惨がある、と書いてあります。そんなときに、心から励ましてくれて、助けてくれる友達がいたらどんなに心強いでしょうか。

実は、そこに、クリスマスの意義があります。試練の多いこの暗い世に、ベツレヘムで生まれたのが救い主でした。イエス・キリストは30歳まで大工さんの仕事をしましたが、伝道に出て最初の説教で、「暗闇に住む人を大きな光が照らした」と教えたのです。暗さは、実は外側ではなく内側なのだと、イエス様は教えたのです。持つことと持たないこと、健康と病気、それらは人間の外側の問題です。人間の世の暗さ悲惨さは、人間に真の友がいないことに深い原因がひそんでいます。それは、神さまがから離れていること、つまり原罪、にあるのです。

この悲惨な人生の極限が戦争です。

こんな話があります。100年以上昔、大きな汽船が大西洋を横断していました。日曜日に船内のチャペルで礼拝がありました。その時歌われた讃美歌の一つに、C.ウエスレー作の「わが魂を愛するイエスよ」がありました。礼拝の後で、ひとりの人が隣に座っていたひとに言いました。「あなたの声を、確かにどこかで聞いたことがあります。」不思議ですね、初めておあいするのに。「どこだったもでしょう。」「いま、思い出そうとしています。そうそう、あなたは南北戦争に従軍しましたか。」「はい参戦しました。」「では、クリスマスも近いある寂しい、暗い夜にあなたはたった一人で歩哨にたったことはありませんでしたか。」「はい、ありました。あの晩の恐ろしいような寂しさは今でも忘れられません。体が震えぞくぞくして寒気がするようでした。」「そうでしたか。そのときにこの歌をうたいませんでしたか。222番の歌を」「ああ、そうでした。たしかにこの歌でしたよ。あまりの暗さと恐ろしさにこの歌を歌ったのです。ですが、最後の安きを給えまで歌うと、急に私の心に大きな平安が与えられました。なんとも言えない平安でした。」相手はそれを聞いていいました。「ああわかりました。あの時、歩哨に立ったあなたを、暗闇の中で撃ち殺そうとしていたのは、わたしでした。わたしは敵軍の兵隊だったのです。鉄砲をあなたに向け、まさに引き金をひこうとしていた時、あなたは心の底から湧くような声で歌い始めました。わたしは狙いながら、聞いていましたが、やがて可哀そうになって、あなたが歌い終わった時に。打つのをやめてそっと逃げ出しました。天の神様はあなたをお守りくださったのです。なんという不思議なことでしょう。」二人は涙ながらに堅い握手を交わしました。もとは敵だったのに、神の助けで不思議な友情で結ばれたのです。

この曲を作った C.ウエスレーもイエス・キリストに救われた人です。イエス・キリストは優しいひとでした。苦しむ人の味方でした。友達です。それだけでなく、人類が互いに憎みあい、殺しあうような暗闇の根本問題、罪と言いますが、この罪を遠くから非難するのではなく、その解決のために自分から罪をかぶって実現してくださった方です。この方は神からの光でした。真の光が来てすべての人を照らします。この方を信じる人は自分も光となります。その歌を歌う時に不思議な和解がうまれます。神の守りが与えられます。皆さんにもそうなりますように。いや、きっとそうなると思います。いつの日か、あなたは戦場に送られた兵士のように、過去を振り返って、友達になってくださった神との出会いを感謝するでしょう。それが、クリスマスの喜びの意義です。

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