印西インターネット教会

クリスマスはまだ終わっていないという説教

「喜びを待ち望む」           ルカ2:25-40

皆さん、クリスマスはまだ終わっていません。12月25日のクリスマスから始まって、顕現日である1月6日までの12夜がクリスマス期間です。町はお正月準備で忙しい様子ですが、教会ではクリスマスの喜びを継続しています。

このクリスマスの何がお祝いであるかというと、旧約聖書のエレミヤ31:17に書いてある、「あなたの未来には希望がある」というメッセージが喜びなのです。将来の喜びについて聖書は預言しています。まだ見てはいないけれど、これから確実にやってくる喜びを信じて喜ぶのです。つまり、これは、信仰的な喜びだともいえるでしょう。

このエレミヤ書には、神の約束が書かれています。だから、「主の言葉を聞け」というのです。人の言葉に迷い、あるいは従来の自分の考えに固執してはいけないわけです。「主の言葉を聞け」「主の言葉を聞け」と聖書は説きます。それも、裁きの言葉ではなく、福音についての「主の言葉を聞け」ということです。また、エレミヤ書31:12には、イスラエルが荒野での苦難の生活の中で真に改心したときに、喜びがあふれることを預言しています。そして、その喜ぶ魂は再び衰えることはないと宣言します。24節には「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」と繰り返されています。わたしたちは常に、このメッセージに目を注ぐ必要があります。

なぜなら、こうした喜びは、何かを得る喜びではなく、むしろ、魂が潤され、罪から癒され、神の恵みを受ける器になることに起因する喜びだからです。だいたい、31章自体が「新しい契約」と書いてあるように、この部分全体が、やがて来るべき新約聖書の時代への序章なのです。つまり、ここに救い主の到来の喜びが示されていると言えます。救い主に出会う事によって、罪から購われ、罪が赦されるから、魂が潤されるのです。力が溢れるのです。

そこで、福音書をみましょう。ユダヤ人が守っているモーセの律法に従って、両親はイエス様が生まれて8日目に割礼をほどこしました。又、40日後には初子(ういご)を神に献げるため、エルサレムの神殿に連れて行きました。イエス様の両親は習慣に従っていた訳です。この場面は、シメオンの賛歌と呼ばれる部分です。礼拝式文のヌンク・デミティスと同じ内容です。29節のラテン語訳です。ヌンクは今、デミティスは去らせるの意味です。

(Vulgate):

Nunc dimittis servum tuum, Domine, secundum verbum tuum in pace:

Quia viderunt oculi mei salutare tuum

Quod parasti ante faciem omnium populorum:

Lumen ad revelationem gentium, et gloriam plebis tuae Israel.

English (Douay-Rheims, 1582):

Now Thou dost dismiss Thy servant, O Lord, according to Thy word in peace;

Because my eyes have seen Thy salvation,

Which Thou hast prepared before the face of all peoples:

A light to the revelation of the Gentiles, and the glory of Thy people Israel

 

ルカ福音書には、シメオンの賛歌のほかにも、マリアの賛歌、ザカリアの賛歌が含まれています。聖書の独特な喜びの表現です。これは、神の慈愛に触れて喜びがあふれたことです。しかし、喜びの裏には悲しみと困難があります。その困難な時代に信じ続けたシメオンのような人々がいたわけです。また、シメオン一人ではなく、当時のイスラエルには、シメオンのように信仰心をもって救い主の到来を待ち望む人々がいたそうです。待ち望むということが、信仰そのものです。信仰は自分中心の確信や強い信念ではなく、神さまの救いの働きを待ち望む受け身の姿勢ですから、わたしたちにも出来ない事ではありません。「人間にはできないが神にはできる」、そう考えることが信仰であり、シメオンの思いだったのです。

イエス様の誕生は偶然ではなく、神さまが既に、イエス様が生まれる前に、シメオンのような信仰の人に救いが近いことを示していたのです。その意味でも、聖書は、シメオンが立派だったとは言いません。人間を称賛しません。「聖霊が彼に留まっていた」と書いています。シメオン自身は普通の人だったかもしれない、でも聖霊が留まることによって、神の御意志を表したのです。ペトロなども同じです。聖霊が留まることによって、もとは単なる漁師だった彼は、福音を伝える器となりました。わたしたちも同じです。人間が偉大なのではなく、神の聖霊には不可能なことがないということです。聖書の読み方としてはこれが大切です。

待ち望むことは、すでに持つていることである、と言った人がいます。それは確かに真実です。韓国の純福音教会の創始者、チョー・ヨンギ牧師がそうです。彼は22歳の時に韓国の貧民窟で教会を開きました。その時、伝道のために自転車が欲しかった。祈っていたら、自転車が与えられるという確信が与えられた。それから彼は、笑顔で、自転車が神によって与えられたと言い始めた。周囲の人は怪訝な顔をして、その自転車はどこにあるの、と聞いた。困った彼は、ここに在るとお腹を指した。その日から、彼は自転車を妊娠した牧師と言われて、笑いものにされた。しかし、親切なアメリカ人宣教師から自転車は与えられた。それだけでない。チョー・ヨンギ牧師は韓国最大の教会を信じた。そして、多くの借金をして1973年に汝矣島という現在は韓国のマンハッタンと呼ばれる国会議事堂や多くのビルのある場所に大教会を建てた。71年まで飛行場でした。わたしは74年に韓国のクリスチャン大会に行った際にこの建物を見ました。集会は飛行場の滑走路でした。まだ工事現場のような教会でした。ところが、それから50年ほど経過したいま、会員数は、日本のクリスチャン人口に匹敵します。そして、教育や福祉などに活躍して神の愛をあらわしています。それも、待ち望んだことから始まったのです。信仰からはじまったのです。これは事実です。

さて、シメオンの賛歌に戻りますと、このメシアはイスラエルの救いだけでなく、異邦人にも、つまり万民に救いをもたらす方であることが表明されました。また、シメオンの預言では、イエス・キリストが多くの人々から捨てられるとしています。ある注解書によれば、救い主の到来は、彼が躓きの石として立つことであるとしています。「彼の前では中立はありえない。彼は人間の心の奥の思いを現わし、彼に味方させるか敵対させるかの光だから」というのです。イエス様との出会いは、自分の罪、自分の闇を知ることなしにはないのです。救い主は魂を罪から、神からの離反から救い、神との関係を回復する方だからです。

シメオンに続いて、アンナも救い主の到来を知り神を賛美しています。84歳ですから当時としてはずいぶん高齢だったと思います。しかし、彼女の思いというのでしょうか、救いへの願いは移ろう事がなかったのです。その一点に絞られていました。「人間は老いると鈍感になる」とよく言われますが、「年齢を重ねるに従い、感受性はむしろますます研ぎ澄まされるように感じる」と言う人もいます。おそらく、シメオンもアンナも同じように鋭い感覚で、神の約束の実現を信じて待ち望んでいたのでしょう。ただ、主に出会う人は老人でなければならないという事はありません。主に会う人は救い主の、受難の意味を知る人なのです。この方の受難によって償いがなされたと知る人です。

シメオンやアンナは心から喜びに満たされました。いま、この素晴らしい救い主誕生のヌンク・デミティスを伝えていく使者はわたしたちです。私たちは、自分の力では決して清くなることも、罪からまぬかれることもできません。約2000年前に生まれた幼子イエス・キリストによってのみ、私たちは、罪の奴隷から解放され、永遠の命を楽しむことができます。使徒言行録8:31以下にエチオピアの宦官に福音を伝えたフィリポのことが書かれています。フィリポは宦官が理解できなかったイザヤ書を解釈し、イエス様の尊い犠牲によって救いがもたらされることを教えました。そして、宦官も聖霊による大きな喜びで満たされました。待ち望む信仰が確立すれば、イエス様の中に充満している聖霊にわたしたちも満たされ、わたしたちは、証しする喜びそのもの、衰えない魂となることが出来ます。待ち望むことは、すでに持っていることです。パウロもローマ書14:17で言っています、「神の国は聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

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