「貧富の差がない平等の社会」ヤコブの手紙1章9節 -15節
文責 中川俊介
9節には、段落をかえる接続詞がきます。「しかし」というような意味です。これは、これまでの論述とは違った例をあげるための用語です。前節では、「生き方全体に安定を欠く人」の事が述べられていましたが、それに反して、貧しい人は、これを神の恵みと思い、神に高められているのだと自覚しなさいということです。この接続詞は、新共同訳には訳出されていませんが、貧しさの中で、自分の信仰や人生に疑問を持つ者に対する慰めの表現に導く転換点として受け止めてもよいでしょう。ただ、この手紙の語りかけの対象は、「貧しい人々」ですが、金銭的に貧しいだけでなく、身分が低いとか、他者から卑下されているという意味もあります。また、これは、彼らがこれから高くされるという未来形ではなく、バルバロ訳のように原典では、「自分が高められたことを誇りとせよ」、と書いてあります。そして、バルバロ訳の注釈には「キリスト信者になったからである」、とあります。確かにそういえるでしょう。この高められるということには霊的な意味が込められていますから、たとえ、社会的には卑下された身分であっても、神に愛され、神に高められているという自覚を持ちなさいということです。ヤコブ書の著者は、特に貧しい人々を心にかけているように思われます。「貧しさと富の対照は、聖書によく見られるテーマである。特に旧約聖書時代の後期に、このテーマは発展した。」[1] ヤコブの手紙はこのユダヤ教の伝統を守っているといっても過言ではないでしょう。そして、貧しい者とは、神を信頼する謙虚な者と同義語であり、富んだ者とは神を恐れない者の同義語でした。貧しいからこそ、日々の生活の中で神に頼って生きていたのでしょう。「クリスチャンとはこのように、貧しさと謙虚さの二つの意味を持った表現である。」[2] 現代に生きるわたしたちの日常はどうでしょうか。考えてみたいものです。「ヤコブは富める者よりも却って卑(ひく)き者こそ、兄弟と呼ぶに相応しいと考えている。」[3]
一方、当時の教会がおかれていた社会関係では、身分の高い者たちもキリスト者の共同体に入ってきたわけです。「この手紙の背景としては、社会的に階層化された共同体が想定される。」[4] 10節では、違う論点を先行する部分に接続するために、再び、「しかし」という接続詞が用いられ、逆説的に、金持ちは自分の卑しい立場、つまり、富という草花に似て滅び去る性質を持ったものに依拠している己の自覚を持ちなさいといわれています。「人が持っている金銭や財産が問題にされているのではなく、有限性の要素が欠けている自意識が問題なのである。」[5] これはわれわれも大いに反省すべき点であり、神の前の限
[1] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、76頁
[2] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、25頁
[3] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、27頁
[4] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、28頁
[5] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、62頁
界意識の欠如、つまり「義人」ヨブの盲点のようなものが指摘されているのだと思います。確かに、富んだ者は自分たちの弱さを忘れていたことでしょう。ただ、富者がそれを、「誇りとする」ということは原典にはないものです。けれども、彼らが低くされるということは、聖書的な考えでは、十字架のイエス・キリストと結ばれることにほかなりません。「イエスの到来によって神の国が開始したという理解をもってヤコブは書いている。」[1]
11節では、草花のはかなさが描かれています。こうした情景描写は聖書にはあまり見られないものです。それをもって、ヤコブは何を伝えようとしているのでしょうか。これを順序だてて考えてみましょう。太陽が昇ると暑さで草花が枯れると書かれています。これは、中近東の自然現象であり、日本では考えられないことです。ただ、砂漠のワジ(涸れ川)では、春の雨が降ると二週間で芽が生え成長して花が咲くそうです。花が咲くころには再び乾燥し、太陽の光と熱風が草花を枯らすのです。これは、そうした自然環境を背景にした言葉です。だからこそ、草花だけでなく富がもたらす外見の美しさも滅びる宿命だとします。同じように、金持ちもその人生の旅の途上で死に絶えるのです。卑しい人々に対する言葉と比較すると、金持ちに対しては大変に厳しい表現が用いられていることがわかります。もしかしたら、太陽と熱風のことは神の裁きの比喩なのかもしれません。それが、富に対するヤコブの基本姿勢なのでしょう。「富む人々の結果的な辱めは、しばしば神の裁きに帰属する。」[2] イエス様も、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(マルコ10:23)と述べていますし、金持ちと貧乏人ラザロの比喩でも、金持ちは死後に地獄に落ちています。それが、初代教会の教えの一部になっていたとすると、ヤコブはまさにイエス様の教えを引き継いでいたということになります。その点では、四世紀にまで及ぶ困難な論議と祈りの結果、福音的ではないと見られながらも「ヤコブの手紙」が正典に入れられたのも理解できる気がします。聖書が告げるのは、人生の旅の途中で死に果てるのは、貧乏人や卑下されてきた人々ではなく金持ちなのです。その背景にあるのは、イエス様が教えられた神の愛にほかなりません。
12節からは、2節以下で述べられた試練の事が再び出てきます。試練を耐え忍んでいる者は幸いなのは、「適格者」という認定を受け取ることができるからだと書いてあります。「大いなる忍耐の力は悪の源を知ることにある。」[3] それは試練の本当の原因の特定です。イエス様が忍耐強かったのは、悪の原因が人の罪にあることを知っていたからです。ここで用いられている「幸い」という言葉は、元来は不滅という意味だそうです。「試練があるということは、ほかでもなく、わたしがキリストに属していることの証拠なのです。」[4] イエス様も試練を耐えるように教えました。「このような賛辞は旧約聖書からイエスの教えに引き継がれている。」[5] ですから、ヤコブもまたこの教えに立っているわけです。また、
[1] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、25頁
[2] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、164頁
[3] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、30頁
[4] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、141頁
[5] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、33頁
この「適格者」という言葉は、ギリシア語ではドキモスであり、審査の結果として品質が証明されるという意味です。ですから、神の審判とは言及していなくても、神からの何かしらの判定をヤコブが想定していたことが想定されます。そして、この試練テストに合格した人は、主を愛する人々に約束された永遠の命の栄冠を受け取ることができるというのです。わたしたちの試練においてもそれは大きな慰めでもあります。「神への信頼と愛が本物であることが証明された人には、キリストの再臨の時、いのちの冠が与えられます。」[1] ちなみに、「栄冠」という言葉は、ギリシア語でステファノスであり、迫害されて殉死したステファノの名前と同じですが、それは単なる偶然の一致とは思えません。また、そこには、主の十字架の事が想定されているのかもしれません。神における試練と栄光とは、聖書の基本的な使信であり、終末のしるしでもあります。パウロも「朽ちない冠を得るために節制するのです」(第一コリント9:25)、と述べており、それは「失格者」にならないためだとしています。「適格者」と「失格者」は同じ語源の言葉ですから、ヤコブが意図しているのもこの線なのではないでしょうか。ヤコブ書の律法的な思想が批判されることもありますが、栄光の冠が与えられるように努力することは、新約聖書では認められていることです。その背景にあるのは、この世の価値であると富と、神の価値である命の栄冠との対比です。また、「今の苦しみは長くは続かないことを理解する時、信者は試練において支えとなる力を見出すことができる。」[2] ここで、わたしたち自身の価値観について自省して見ると、それがこの世的なものなのか、それとも、神への信仰に立ったものなのかが問われていると思います。
13節では、試練を受けている者が、その試練が神から来ているのだと言ってはいけないと書いてあります。神が全知全能であり、すべてを支配していると考えるならば、罪への誘惑も神に起因すると考えやすいものです。「しかしながら後期ユダヤ教の神学思想においてすでに、悪の発生をも全能活動の概念の中に含め入れようとする考え方は、見られなくなっている。」[3] この試練は、誘惑という悪魔的な性格を持っているので、それが神に起因していると言ってはいけないということでしょう。何故なら、神は悪い誘惑を受けないし、神がサタンの悪い誘惑を人々に与えることもないからです。ここで、ヤコブは大胆にも、神の受ける誘惑ということを述べていますが、ヤコブの頭の中では、邪悪な異教の神との対比があったのでしょうか。「シュラッターのような解説者はここで、旧約聖書の神を質が低く制限のある神であると考えたマルキオンの名前を出す。」[4] 確かに、ヤコブがこのように書いているからには、神を低次元の存在と考えた人々が信仰者の中にもいたと考えることはできるでしょう。「マルキオンのほうは、世界を創造し、律法を与えた下等な神と、イエス・キリストの神とを明確に区別しようとした。前者の神は、公平だが執念深
[1] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、21頁
[2] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、80頁
[3] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、27頁
[4] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、71頁
く、不完全なところがある。さらに誤りも犯している。」[1] ある翻訳では、「神は悪によって触れられることのない方である」となっています。これは義なる神の説明として適切だと思います。また、そうした面もあって、ヤコブは異教の神あるいはマルキオン的な異端の神と、天地創造の神との違いを明確にしているのでしょう。愛の神には、人を悪にいざなうという意図はありえないのです。「神は死を造らず、また命ある者の滅びを喜ばれることもないのである。」[2] ただ、この部分は全体的に見ると神論に言及していて、理解が困難な部分でもあります。
14節で、ヤコブは各自が自分の欲望によって誘惑を受けるとしています。そして、餌でおびき出され、正しい道から誤った道に誘われ迷い出てしまうというのです。「この語は元々魚釣りのイメージの中で使われ、そんな意味合いがここにもある。」[3] これは、6節にあった荒海の描写と同じように非常にビジュアルな表現だと言えます。それは、ヤコブ自身が文学的才能を有していたのか、あるいは、手紙の受け手である人々にわかりやすく教えを説こうとしたのかのどちらかでしょう。
この欲望について、15節では、それが共に受胎して罪を生み出すとしています。そして、罪が成熟して死を出産するというのです。「ヤコブは、子どもの誕生と成長のイメージで、その過程を鮮明に描く。」[4] これは、とても具体的な表現ですが、罪が人間存在の原点ではなく、個人の欲望から発生する実であり、死がその結末だとされています。「つまり彼の本質はその行動と暮らしによって完結するのである。彼が死ぬのは自業自得である。彼の生き方が自ずと彼の受ける判決を語っている。裁く人間は裁かれる。」[5] 罪は宿命的なものではなく、善にも悪にもなりうる欲から発生していると考えてよいでしょう。「罪は人間の意志より生ずるものである。」[6] 聖書はこれを、悪魔の根源が天使であり、エデンの園でアダムとエヴァが欲と自分たちの意志によって命の木の実を食べた事にも関連させています。この欲と意志は、善人悪人、貧富の差、民族の違いを越えて人類に普遍的なものです。「この書簡全体の意図はすべてのものを平等の立場へたちかえらせることである。」[7]つまり、ヤコブ書は信仰者の視点から、人間の過ちを正し、健全な兄弟愛に生きるように諭しているわけです。
[1] HR.ボーア、「初代教会史」、教文館、1977年、107頁
[2] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、165頁
[3] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、83頁
[4] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、83頁
[5] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、63頁
[6] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、32頁
[7] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、28頁