印西インターネット教会

受難節に知っておくべき聖書の真理についての説教

「弟子の無理解」     ルカ18:31-43

イエス様は自分が十字架につけられるということを3回予告されました。3度とは、それが重要な事柄であることを意味しています。二度までは「偶然の間違い」が重なるかもしれません。けれども、二度と三度は決定的に違います。三度目の正直であって、決定的です。実は、それと似たことがイエス様の時代の600年前に起こっています。預言者エレミヤの時代です。エレミヤは、人々が神の言葉に聞き従わないのでエルサレムの神殿も滅びてしまうことを預言しました。すると、当時の指導者だった祭司や学者は、彼を死刑にしようとしたのです。彼らの理由はこれでした。つまり、エレミヤ26:11にあるように「この都に敵対する預言をしました」ということでした。自分たちが大切にしていたものを侮辱されたというのです。怒りの原因はそこです。外国の侮辱の言葉である、ユーサンオブザビッチ(USB)も同じです。相手を侮辱するのではなく、相手が大切にしている親を侮辱し、お前は雌犬の息子だというのです。

こうした、敵意に対してエレミヤは「お前たちの目に正しく、良いと思われることをするがよい」と答えています。無理解の人々や、自分たちは神のみ心を知っていると言いながら憎しみに生きていた当時の人々は、神の助けがないので真実が見えていませんでした。

パウロは同じように人々の無理解を述べています。フィリピ3:18「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。つまり、エレミヤを殺そうとした祭司や律法学者のように、自分が正しいと思い込んでしまい、神が遣わしたものを迫害してしまうのです。まさに無理解です。

無理解というのは、単にインフォーメーション(情報)が届かないと言うことではありません。話している人を理解できないのです。気持ちが届かないのです。良い関係に進めないことです。例えば、あるおばあさんが家族と一緒に住んでいました。お茶ください、と言いました。でも、家族はテレビを見ながらワイワイ楽しそうでした。声は聞こえていたと思います。きっと、後でいいと思ったのでしょう。おばあさんはもう一度いいました。「お茶をいれてほしいんだよね」きっと、自分は少し体の具合も悪かったのでしょう。でも家族のだれも立ってお茶をいれませんでした。それでもおばあさんは、もう一度「お茶をいれて」といいました。三度言いましたが、反応はありませんでした。三度というのは決定的な数ですね。次の朝、おばあさんは自殺して冷たくなっていました。

なにが、おばあさんを苦しめ、死に至らしめてしまったのでしょうか。おばあさんの我儘でしょうか。それもあったかもしれません。しかし、それ以上に、家族の人たちの無理解、言葉は届いているのに、自分のことを世話してほしいという気持ちが届いていなかったことに原因があったのでしょうか。この家族で自分は無用の存在、あるいは、いてもいなくてもよい存在だと感じて絶望したのです。残念なことに、学校教育の中でも、「いじめ」によって、自分が邪魔な存在だと思わされた生徒は、死を選ぶことがあります。神という愛の存在を知らない時には、人間関係の中の孤立が辛く、耐えがたいものです。

さて、ルカ23:34を見ますと、イエス様は敵を赦してくださいと神に祈り、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言ったと書いてあります。この自分が分からない人とは、他者ではなく、まさにわたしたちの姿ではないでしょうか。わたしたちも、何かを決断しなくてはならないときがあります。それを、先延ばしにしてはいけないのです。けれども、それは、たいてい喜ばしくない(したくない)方の選択の場合が多くあります。勉強・仕事・人間関係・・・・・等々。選択から逃げてしまいたい状況はいっぱいです。 ただし、逃げたいのは、情況が理解ができないからです。

これが、まさに弟子たちの状況でもありました。弟子たちは、イエス様の栄光とか、奇跡とか、素晴らしい奉仕の方にしか目がいかず、受難のことについては何も分かっていなかったのです。「わたしは侮辱され、乱暴な仕打ちをうけ、唾をかけられ、鞭うたれて殺される、そして三日目に復活する」これは、イエス様の受難と復活を示しています。人間の人生で最も大切な人類の救いの中心をしめす言葉です。でも、情報は伝わっても、それが弟子たちに理解されることはなかったのです。復活のイエス様が、聖霊の働きを通して弟子たちに聖書を説き明かされるまで、それは隠されたままだったのです。イエス様の出来事は、復活と聖霊降臨によって明らかにされたのであって、それまで弟子たちは本当のことを「何一つわからなかった」と聖書は記録しています(ヨハネ14:26参照)。

こんな例話があります。ある牧師がアメリカに教会研修で行った時のことです。貸してもらった車を、一人で運転し緊張しながらガソリンスタンドに入りました。するとメキシコ人のお兄さんが来て「ゴチャゴチャ、ガチャガチャ」と言ったのです。何一つわかりませんでした。だから「ハァ?」と聞くと、また「ゴチャゴチャ、ガチャガチャ」と大きな声で言うのです。先生は英語がわからないので理解できなかったのですが、ガソリンスタンドの従業員は、彼がよく聞こえていないと思って大声で話してくれました。でも、日本語しかわからない者に英語で、いくら大声でも、聞こえても、わからないのです。

聖書の話も丁度同じですね。人の思いや人の世の常識を日本語とすれば、外国語である神の言葉が理解できるはずがありません。「この世のことしか考えていない」からです。エレミヤもパウロもそれを言っているのです。しかし嬉しいことに、第一コリント2:9にある通り、「目が見もせず、耳が聞いたこともないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないことを、神は、神を愛する者のために、準備された。」というのです。

そうです。何一つわからないことばにわたしたちは聖書を読むときに直面します。それは、最も大切な救いの言葉です。ですから、わからなくても言葉を聞くことは大切です。やがて、本当に理解した時、それはイエス様を救い主として信じる土台となります。さらに、そのお心に触れて、応答するとき、救われ、生まれ変わります。わたしたちを救い、わたしたちを変えるのは、わたしたちとキリストとの関係が根底にあります。

考えてみてください。今、必要なこと、それはわたしたちが救い主に応えることです。これが関係です。関係とは一方通行ではなく、双方向のものです。あのおばあさんの叫びのように、イエス様は呼びかけています。わたしのために、これをしてほしいと頼んでいます。それは何でしょうか。呼ばれたら、喜んで答え、喜んで立ち上がり、喜んでお茶をいれるかのように、聖書は呼びかけに満ちています。それに答えたいものです。フィリピ4:1「主によってしっかり立ちなさい」と書いてありますが、これも神の側からの呼びかけです。その呼びかけに答える時、キリストに愛され、愛する新しい関係がわたしたちが新しい世界へと導かれていることを実感するでしょう。呼びかけに起因する人生の救いと言えるでしょう。つまり、これが自力ではなく他力の信仰ということです。他力の信仰とは、他人任せの信仰ということではなく、神という絶対他者に応答していく信仰のことです。

このことは深い意味を持ちます。神の子イエス・キリストが、神との関係を断たれ絶対的な孤独と絶望を味わわされている多くの者の側に立ってくださった、ということです。どん底の苦悩の中で、「誰にも理解しては貰えない、誰も慰めてはくれない」 と思っている人々に対して、イエス様は、「いや、私はあなたと共にいるよ」と語りかけてくださるのです。

あの、おばあさんにしても、イエス様の語りかけを知っていたら死ぬことはなかったでしょう。それだけではない。復活を理解できたでしょう。「わたしは侮辱され、乱暴な仕打ちをうけ、唾をかけられ、鞭うたれて殺される、そして三日目に復活する」の意味が理解できたでしょう。これは、受難節には特に大切な言葉です。大切な人が、ずたずたに切り裂かれたり、人生の大切な存在が無残につぶされることも起こりうることです。しかし、その試練のなかでこそ、わたしたちは、本当のキリストの弟子となります。何故ならば、イエス様が呼びかけたように、赦しがたい相手を赦し、認めがたい苦難を受容できるようになるからです。それはもう、人間の働きではありません。神の愛による、救いの働きです。ですから、誰でもイエス・キリストの受難と復活を信じる者は滅びずに、永遠の生命を得ると書かれています。永遠の命とは、長生きの命ではなく、憎しみや、迫害、軽蔑、無視、差別、暴力、誹謗中傷、屈辱、心痛、激痛、別離、等々の試練に出会っても傷つかない命のことです。これが受難節に信ずるべき良い福音の知らせです。そして、多くの人々が必要としているのも、この永遠の命の福音です。

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