閑話休題

礼拝堂の中を見てわかる神学

昔のことですが、ある文化人類学者の本を読んだら、各国の都市構造は、その国の人々の思想が反映されていると書かれていました。つまり、外面である都市は、内面である脳内の思想の反映に過ぎないというわけです。これは、心理学でも応用された考えです。例えば、患者に箱庭を造らせれば、その人の内面的な悩みがどういうものか、具象として現れるのです。前置きはそのくらいにして、今日は皆さんが初めて教会の礼拝堂に入った時の事を想定してみましょう。実は、建物の大小の差や、装飾は別として、礼拝堂の構造には、その教派の神学が反映されているからです。アメリカなどにはクウェーカー教徒の教会がありますが、この礼拝堂は公会堂のようなもので十字架もありません。つまり、彼らの神学では、神から直接インスピレーションを受けて、まるで旧約時代の預言者のように「いま、ここで」メッセージを語ることが大切なのです。論外ですが、エホバの証人の経典の中には「十字架」という用語はみられません。それは、彼らの神学にとって無用のものだからです。さて、教会によっては、正面の真ん中に説教台が設置してある教会があります。この教会はプロテスタント系であることは間違いありません。牧師の語る説教こそが教会の中心だという神学があるからです。あるいは、牧師が教会の中心であるという神学かもしれません。説教台もなく、牧師が真ん中に座っている教会もあるからです。アメリカの神学校で学んでいた時に、教会史のクラスの課題で、色々な教派の教会に行き、レポートを書いたことがあります。その中で、特に印象深かったのは、ギリシア正教の教会でした。音楽は、オルガンなどの楽器を使わずアカペラでしたが、美しい和声に神聖な感じがしました。礼拝堂の正面には大きな壁があって、見えない反対側が、至聖所なのです。真理は隠されているというのが彼らの神学なのでしょう。ただ、礼拝の中で、その扉が開くときがあって、これこそ啓示宗教の象徴だと思わされました。あと、わたしが所属していたルーテル教会や、聖公会、カトリック教会などでは、礼拝堂の正面中心には、聖卓と呼ばれる台があり、ここを中心として聖餐式が行われます。説教台は正面ではなく横にあります。そこに示されている神学とは、教会(エクレシア、呼び集められたもの)の中心は主イエス・キリストの犠牲による罪の贖いと赦し、そして和解の成立という事です。たとえ、この世で、千人中の千人がわたしたちを責めたとしても、イエス・キリストの罪の贖いを信じる者には、それらの騒ぎは騒音に過ぎないのです。自分の罪に無自覚な人間ほど他者を責める事が出来るからです。教会では、時にはフィリピンからきたカトリックの信者さんから、礼拝堂で祈らせてくださいと頼まれることがあります。異国でどんな方法で暮らしを立てているかはわかりませんが、キリストの赦しを感じられる礼拝堂で祈ることで、心に平和が与えられることだろうと思います。では、インターネット教会はどうでしょうか。礼拝堂がないわけですから困りますね(笑)。でも、こんな言葉はどうでしょうか。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ福音書4章21節)

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