印西インターネット教会

受難節に苦難の意味を考える説教

「苦しみの価値」       ルカ20:9-19

あの3月11日の大震災から13年が過ぎました。そのころの小学生も成人となっています。しかし、大きな苦しみを経験した人々は、今、どう考えているでしょうか。

わたしたちは苦しみに少しでも価値を見出すことができるでしょうか。お釈迦さまは人生の現実を直視して、それが自らの思うままにならぬものことで満ちあふれているさまをつきとめました。お釈迦さまは、それを苦とよびました。生(しょう)・老・病・死の四苦が最大であるとしました。それと同時に、「愛するものと別れなければならない(愛別離苦)」苦しみ、怨(うら)み憎むものと出会わなければならない「怨憎会苦(おんぞうえく)」苦しみ、求めても得られない「求不得苦(ぐふとくく)」苦しみ、存在を構成する5つの要素に自分が執着する苦しみ(五蘊盛苦(ごうんじょうく)など、四つの苦しみを列挙しています。これらを総合したものが、八苦と呼ばれています。ここから四苦八苦という表現がうまれました。

お釈迦さまは苦しみからの諦めを説きました。一方、聖書には「苦難を誇りとします」(ローマ5:3)と書いてあり、苦難、忍耐、練達、そして希望に至らせると約束されています。とても前向きだと思いますが、心の弱さを持つわたしたちが、そこまで強い信念を持つことができるのでしょうか。ただ聖書には、普通の人間の考えと違った視点が示されています。これは仏教とも違います。それは、他者の視点だと言えるでしょう。そのことを、復活のキリストに出会うことで自覚したパウロが書いています。「あなたがたのために苦しむことを喜びとし」と(コロサイ1:24)獄中書簡の中で、晩年のパウロが書いたのです。獄中で、パウロはどんなに悲惨な待遇に置かれたことでしょうか、しかし、それでも彼は、その苦しみを他者のために利益となる苦しみだと覚えているのです。つまり、これは、キリスト教信仰の核心とも言える、贖罪の犠牲という、積極的な苦しみの理解のことではないでしょうか。

今、わたしたちはレント(受難節)を過ごしていますが、この時にぜひ苦しみの積極的な意味を学びたいものです。

さて、今日の福音書の内容は、権威の問題と関連しています。エルサレムの神殿で働いていた多くの権威主義的なユダヤ人たちは、ガリラヤの田舎から現れた預言者イエスの権威を疑いました。イエス様もこうした批判に対して、たとえを通して大切なことを示しています。はっきりしていることですが、ここでは畑の持ち主が神。農夫たちが権威主義的なユダヤ人。ブドウ畑がイスラエル。持ち主の息子がイエス様をあらわしています。そこで問題なのは、農夫たちが自分たちの所有していない権利を乱用したことです。畑の持ち主から送られてきた僕を次々に追い返しています。それは彼らが神の権威あるみ言葉に従わずに自分たちのやりかたに執着したということです。

息子までも放り出して殺したというその方法に、農夫たちの権威に対する蔑視、無視が表れています。おそらく埋葬もしなかったのでしょう。まるで廃棄物のように、ブドウ園から外に投げ捨てたのです。これこそ、十字架の死の預言だとも言えます。つまり、犠牲の死とは、英雄的死とか、精神性の高さとか、そんなものではなく、ぶざまな、ゴミ捨てのような、頓死だったわけです。ヘブライ人の手紙には「イエスも門の外で苦難にあった」(13:12)と述べています。この門外とは、聖地エルサレムの城壁の外にあった、処刑場、いわば人間の命のゴミ捨て場、ゴルゴダの丘のことです。

そのたとえ話のあとで、イエス様が導き出した結論は、ブドウ園の権利が他の者の手にわたるということでした。ですから初代教会の時代のクリスチャンたちは、ブドウ園が他の者の手に渡るということを、権威がユダヤ人指導者から、初代教会の指導者たちに渡ると考えたようです。

また、この個所の最後には詩編118が引用されています。この詩篇はバビロン捕囚を背景とする詩です。神は、バビロンに拉致された人々を解放してイスラエルに戻し、新しい国の再建を任せました。捨てられたかに見え、ゴミとなったかのような石を用いて、神はイスラエルを立て直してくださったと人々は讃美しました。これが詩編118篇です。ですから、イエスがこの詩篇を引用された意図は、ある面では絶望的な状況の背景にも、すべてに神の御計画があるということです。これを理解しにくいお方は、フランクルという精神医療の学者が書いた「夜と霧」という本を読んでみることをお勧めします。ナチスドイツの収容所を生き延びたユダヤ人著者が、苦しみに関する深い理解を示しています。そして、苦難や痛みの背景にも神の意志があることを示しています。また、「雀一羽さえ神のお許しがなければ地におちることはない」(マタイ:10:29)というのも、イエス様の一貫した教えでした。このたとえ話にあるように、イエス様こそ、神の御計画に従って、死を覚悟でブドウ園に送られた神の子だったからです。

さて、このたとえは人間の所有権の問題をも明確にします。わたしたちはたとえ話の中で農夫の態度に憤慨します。悪いですね~彼らは。彼らは二倍返しを受けるべきですよ。そんな感じでしょうか。

でも、それが実はわたしたちの姿だと何人が気づくでしょうか。例えば、事故で自分の指を失えば苦しみます。それは、指がもともと自分の所有だと思っているからです。苦しみの原因の多くは所有意識から発生します。3.11の大震災の際に津波で多くを失った人が、「海が憎い」と言っていました。確かに、そんな気持ちになることも、否めません。ただ、わたしたちがそれまで当然のように所有していると思っていた、家族や財産は、自分に最終的な所有権があるものなのでしょうか。

それは、ブドウ園を自分たちの当然の所有だと考えた農夫たちの姿に似てはいないでしょうか。だから不平不満がたえないのかも知れません。実は、本当は外の出来事が悪いのではなく自分の心が悪いことに、わたしたちはなかなか気付かないのです。神の畑を自分の畑にしたいという意識や執着があるのです。自分の畑だと主張するから苦しいのです。実は、逆説的ですが、この執着から救うのが救い主の苦難の役割です。苦しみを苦しみで克服しているのです。

ある牧師が先輩の先生について書いています。「わたしはあなたの骨を拾う。師よ、36年前わたしはあなたの前におりました。怪我をした野良犬のようなわたしをあなたは嫌われもせず、温かいたなごころで包み、埒もないたわごとをまるで意味あることのように聞いてくださいました。あなたがおいでにならなかったら、わたしはキリストを信じなかったでしょう。」この先生の助けになった先輩の先生もまた、執着からの解放してくださるキリストを知った人だったのでしょう。

イエス様は、神の愛の手に噛みつき、自分の権利を主張して騒ぎ、わめきたてる人々、自分の権利が侵害されたと憤慨する人々、つまり、農夫のようなわたしたちを、憐れみ、徹底的に仕え、命さえ与えてくださったのです。

神がわたしたちを愛して罪の償いのいけにえとして、御子イエス・キリストを遣わされた(第一ヨハネ4:10)というのは、まさにこのことです。

たとえ話の結末は厳しいものですが、そうなってはいけないよ、いつまでも自分の権利に執着して神に滅ぼされてはいけないよという、イエス様のあたたかい教訓であり、また最後まで拒む者への警告だと思います。実際にユダヤ人の指導者たちは紀元70年のユダヤ戦争で滅んでしまいました。わたしたちも「裁きを受けないようにするためには不平不満を言わないことです。」(ヤコブ5:9)

御子イエス・キリストを十字架につけてしまうような人間、それは実にわたしたち自身のことです。そうした罪人に対して、叱るのでなくイエス様は命を犠牲にして救いを与えようとしてくださったのです。それはわたしたちがイエス様の弟子に変えていただくためです。パウロもそうでした。「わたしはキリストに結ばれた者です」(ローマ9:1)ペトロもそうでした。「あなたがたは神のものとなった民です」(第一ペトロ2:9)ヨハネもそうでした。「御子に似たものになる」(第一ヨハネ3:2)。

ですからキリストの受けた十字架の苦しみの最も深い意味は贖罪です。贖罪とは、わたしたちが自己権利の主張を捨てて、神との正しい関係に戻されることです。正しい関係とは、強制収容所のような過酷な状況の中でも神が愛してくださっていることを信じられることです。第二ペトロ4:1に「苦しみを受けた者は罪とのかかわりを絶った者なのです。」とあるとおり、見方を変えれば、苦しみは所有権の喪失ではなく贖罪のしるしです。苦しみを通して所有権を失ったものは、無一文であるからこそ、主張すべき自己権利を持たないからこそ、キリストに結ばれるからです。

キリストと人生の所有権を同時につかむことはできません。自分に執着する、農夫のような生き方が滅び、神のみ心に従う息子のような生き方に変えられるのは苦しいことですが最大の恵みです。ある面では、震災の被害を受けた者だけでなく、わたしたち一人一人も苦しみと悲しみと痛みを知る、捨てられた石なのではないでしょうか。でも捨てられた石こそが、その親石であるキリストに結びついています。神がその全てを知っています。聖書を見る限りそうだとしかいえません。そこで、わたしたちの人生の苦しみの意味をも、聖書を通してもう一度考えてみたいものです。これこそ受難節にふさわしい黙想です。

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