印西インターネット教会

教会牧師の反省

40年以上のあいだ牧師の仕事をしてきて、最近、反省することがありました。それは、自分のこれまでの活動が、教会員を増やすこと=クリスチャンを生み出すこと、というパラダイムに立脚していたのではないかという思いでした。これは、自分の思考形態や信仰形態が、組織化された西洋の教会制度に染められたものだったからです。勿論、教会にも多くの利点があります。この宗教制度がなかったら、二千年に及ぶ歴史の中で、キリスト教はとっくの昔に過去の遺物になっていたかもしれません。教会という組織をとおして、迫害や不信仰や異端を耐えてきたのです。古代教父のイレニウスも「教会の壁の外には救いなし」と語りました。しかし、この度のコロナ禍で、各教会が組織維持に懸命な姿を見せる一方、コロナで苦しむ人にどれだけ福音を届けることができたかについては、疑問の残ることでした。結局、現代の教会は、健康な人、献金ができる財力がある人、日曜日に家族を家に残して礼拝に出る時間の余裕のある人のための、特別な宗教機関だと思わざるを得なかったのです。しかし、イエス・キリストの伝道はどうだったでしょうか。丁度、正反対だったように思えます。病気の人、その日の暮らしにも困る貧しい人、ユダヤ教の教会堂礼拝に出席できなかった人、そうした人たちを対象にしていたとしか思えません。日曜礼拝を当然のこととして考えてきたわたしは、コロナ禍の到来によって、現代の教会の持つ虚構に気付かされたのです。現代の教会のありかたを、神は喜んでおられるのでしょうか。そのようにはおもえません。むしろ、イエス・キリストのような伝道、つまり組織の利害を第一にする伝道ではなく、困っている人を物的にも精神的にも助け、愛していく伝道を望んでいるのではないでしょうか。

地方の教会に属さなくても、クリスチャンという名称や洗礼名がなくても、イエス・キリストに従った無名の人々のように、神の愛を発見した人であり、その神の愛によって周囲の人に接することになっただけで、神は喜んでおられるのではないでしょうか。もし、「教会の壁の外には救いなし」が真実だとしたら、教会が生まれる前に生きた、アブラハムやモーセは救われていないことになります。正規の教会ではない信仰を持っていたヘレン・ケラーも、救われていないことになります。教会を基準にして考えると、多くの矛盾が噴出します。むしろ、「神は愛なり」と聖書が語っているように、「愛」を基準とすべきだったと、過去の自分の伝道活動を振り返って反省しているのです。信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ、という出発点を持っていたルーテル教会も、全国総会に出席してみれば、その実態がわかりますが、「お金のみ」が真剣に討議される教会になりつつあります。その理由は同じです。教会という組織の維持にはお金が必要だからです。そして、正規の神学教育を受けている牧師たちも、これには疑問をはさみません。なぜなら、金が自分たちの給料になるからです。つまり、これは職業牧師ですね。こうした職業牧師の悪弊を教会が生み出していることを反省する人もいません。伝道も組織を守ることの意味しか持たないのです。わたしの反省は、ここにあります。大切なのは組織ではない。今、苦しんでいる人々に福音を届けられればいい。クリスチャンになってもいいし、異教徒でもいいい。大切なのは、その人が神様から与えられた人生を愛し、他者を愛し、造り主である神を愛することだけです。インターネット教会の存在意義もそこにあるのではないかと思っています。わたしなりの反省の独り言でした。

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