ブドウの木の譬えについての説教
「枯れないために」 ヨハネ15:1-10
今日の福音書の日課である、ブドウの木と実を結ぶ枝とは何のたとえでしょうか。豊かに実を結ぶというのは、立派なクリスチャンとして生きることでしょうか。証をすることでしょうか。社会事業を起こすことでしょうか。教会活動に貢献することでしょうか。確かにそういう部分もあるでしょう。しかし、もしこの譬えの意味がそれだけなら、6節にあるように実を結ばない枝は外に投げ捨てられ、集められて焼かれてしまうということになります。つまり、社会の役に立っていない信者は裁かれて捨てられてしまうということです。信仰の世界の能率主義のようなものです。
しかし、もし自分は実を結んでいるという自覚があったら、どうでしょうか。これは、イエス様の時代の祭司や、現代の牧師が陥りやすい誤りです。何故なら、はたして神の目からみて、その人は実を結んでいることになっているかどうかという問題があるからです。私は人の命を助けたことが3度あります。溺れかかった人を救ったのが2回、自殺の抑止が1回です。ただ、人命救助はクリスチャンでなくてもしていますから。それだけでは信仰的な実を結んだと言えないと思います。人を助けたから、自分は神のまえに功績を積んだとも思えません。
ある牧師はこのイエス様のたとえについて、「私はもともとこのような言葉が好きではありませんでした」とまで言っています。確かに、取捨選択のような響きがあるわけです。その牧師が恐れたように、この部分には、役に立たない人は捨てられる運命にあると宣告しているように聞こえるからです。皆さんはどう思いますか。自分は、実を結んでいる枝なのですか、それとも、捨てられて焼かれる枝なのですか。わたしにも、答えはわかりません。しかし、一つだけ分かることがあります。それは、このようにして、自問自答することが大切なのです。哲学的に考えれば、自分の存在の基盤を問うことでもあるでしょう。何気なく生きているときには、この点が欠けていると思います。ですから、イエス様は、まず、己の脚下を照らすことを奨励したのでしょう。
実は、ここには、人間が神の前でこれまで何をしてきたか、また現在、何をしているか、という「行いの問題」が隠されています。この「行いの問題」は、宗教改革時の最重要問題でもありました。ルーテル教会の和協信条の中では、ヨハネ15章が行いと信仰の対比のなかで何度も引用されています。
例えばこう書かれています。「人間の回心は聖霊だけのみわざである。それなしには私たちが植えること、種をまくこと水を注ぎことはすべて無である。キリストは自由意思に対してその力を否定している。」かなり強く、人間的な行いにたいする否定的な見解が表明されています。しかし、人間的な「善行」に対する否定的な意見とは反対に、和協信条は実を結ぶことの意味として、「キリストを信じる信仰によって生まれかわり、律法を行うことができるようになること」だとしています。キリストに結びつくことによってはじめて、人間の行いが神に喜ばれる行いになるのです。つまり、キリストなしに愛と功績によって神に近づくという誤った教えに改革者たちは反対していた訳です。神が喜んでくださる実とは、信仰によって生まれてくる一つの結果であり、神に近づく手段ではないのです。
そこで、豊かな実とはキリストを信じる信仰からのみ生まれてくるのだとすると、もし皆さんが、「自分には救われるような良い業がない、自分は何もできていない、他者の役にも立っていない、家族にも貢献できていない、自分の中には愛というものがない」、そう思っているなら、これは逆にもう立派なキリストの枝だと思います。なぜかというと、本当の意味で神を信じない人は、むしろ自分が役に立っている、自分はひとかどの人物だと思っているからです。それこそが、ブドウの木につながっているようで、じつは実を結んでない枝なのです。
それが2節で説明されている、幹にながっていながら実を結ばない枝のことです。ホセア書10:1を参照されるとわかりやすいと思います。それは、伸び放題の枝です。元気はよいのですが、自分勝手なのです。もともとの悪い野ブドウの性質に戻ってしまった枝なのです。
私にもこんな経験があります。ある時、洋ナシの苗を買ってきました。買った時には小さな実がついていました。だからこれはきっと良い実がなると思って楽しみにして植えました。ところが次の年になったら根元からもっと勢いが良い枝がのびて、小さな実をつけていた枝は涸れてしまったのです。それは古い野生の性質を持った枝でした。勿論、この部分は台木ですから、勢いはいいのですが実を全然つけません。おそらくブドウにもそういう現象が起こるのでしょう。イエス様はそれを言いたかったのでしょう。勢いだけ良いというのは、自分の力に頼っていることです。社会奉仕とか教会生活に一見貢献しているようにみえます。ところが、それはただ勢いがよいだけなのです。神の実をつけてないのです。自分の葉を茂らせているだけです。神に貢献していると自己流に考えているだけです。ただ、人間には、誰でもそういう時期があるものなのです。まだ、自分自身が砕かれていないのですね。
本当に実をつけるということは、神に喜ばれることです。神に喜ばれるということは、人に喜ばれるということでもあります。イエス様の伝道がまさにそうでした。同時に、神に喜ばれるということは、神を喜ばない人からは嫌われ、憎まれるということです。この喜ばれる実とは何でしょうか。コロサイ1:9-10にも、「すべての点で主に喜ばれるように」、と書いてあります。これは信仰がもたらす実であると解釈していいでしょう。ヘブライ書にも信仰がなければ神に喜ばれることはないと書かれているからです。
この信仰こそ、実を結ぶものです。イエス様が何度も語られた、ブドウの幹に「つながっている」ということです。それは、「とどまる」という意味でもあります。この動詞は新約聖書には118回出てくるそうですが、ヨハネの福音書やヨハネ書簡でその半分以上が使われています。実に多くの「とどまりなさい、つながっていなさい」が説かれているわけです。わたしたちは、自分に力があると思えば思うほど、ブドウの木からは離れてしまいます。
逆に、自分には誇るべきものはなにもないし、神のみ心にかなって生きている自信もない。自分は無力だ。こうした「打ちひしがれ恐れおののく良心」を持つときに、これこそが良い枝のしるしです。その人は、ブドウの木につながっています。ルターもアウグスブルク信仰告白で、ヨハネ15章を引用し「キリストなしには、人間の本性や能力はあまりにも弱くて、良い行為をなし、神を呼び求め、苦しみに堪え、隣人を愛し、命じられた職務に熱心に従事し、服従し、悪い欲望を避ける」ことなどはできないと語っています。その意味でヨハネ15章は本当に重要なのです。
この、つながっているべきブドウの木であるキリストは、決して抽象的な存在ではなく、キリストの体そのものである教会が、まさにそれでしょう。信仰は一人で信じられるものではないからです。このインターネット教会も、パウロの時代の書簡と同じように、一つのメディアにすぎませんが、そこに教会の枝は広がっていると考えられます。信仰と教会は、時空を超えたものでもあるのです。
また、わたしたち自身は砕かれた者であっても、キリストの体なる教会の説教や、聖礼典において、救いあずかることができます。わたしの両親の故郷である山梨県の石和にはたくさんのブドウ園があります。そこで実際に見ると、枝で完熟したブドウの実には実に輝くような美しい色合いがあります。その実をもたらす枝のように、わたしたちは教会に連なりましょう。時には、性格に合わない人もいるでしょう。でも避けてはいけません。とどまりなさい。傷つくこともあるでしょう。でも、つながっていたほうが良いのです。何故ならば、ここにしか救いがないからです。
そして自覚しましょう。いま、自分は枝を養うキリストの手足であることを。家族、知人がキリストの体につながっているかどうかは皆さんにかかっているのです。わたしの例をお話ししましょう。わたしはアメリカの神学校で5年間学び、そのあと日本の神学校に2年間行き、卒業後には12年間ルーテル教会の牧師をしました。しかし、ルーテルの伝道方策に失望してルーテルを離れました。そして、独立伝道者の道を歩みました。定職もなく5人の家族を抱えての生活は極めて困難でした。やがて、NHK学園聖書講座の専任講師、一般大学の講師を務めるようになって生活は安定しました。しかしその12年間、百数十人のルーテル教会牧師の中で、中川という人間を覚えてくれていた牧師は7名だけでした。神学校の先生では江藤先生だけでした。先生は、生活を心配してくださり、ある地方の大学の仕事まで紹介してくれました。残念ながらその仕事をうけると、開拓伝道ができなくなるので引き受けることができませんでしたが今でも感謝しています。
その時に感じたものは、キリストの体につながっていることです。わたしも離れた一人だったわけですが、多くの人がキリストにとどまり続けるには皆さんの信仰と皆さんの働きが必要なのだと思います。わたしたちがその働きをするのです。電話をしたり、手紙を書いたり、訪問したり、集会にさそったり、困った時に助けたりするのです。インターネット教会の場合には、教会礼拝に出られない方々に紹介すると良いと思います。何故なら、現代の教会は、経済的に余裕のない人、健康を害している人、日曜日には家族の世話や仕事がある人には行けない場所になっているからです。
聖書には118回もこの「キリストの体にとどまりなさい」、という勧めが語られています。おそらく、今日、この説教を読んでくださっている方にも、そう語られているのでしょう。そして、ここには深い意味があるのでしょう。新約聖書の末尾にある黙示録を読みますと、命の川の両岸に植えられた命の木は一年に12回実を結ぶとあります。川も水源である神様から離れたら、水が涸れます。木も水をあたえる川から離れたら枯れます。これは、つながっていて枯れないようにしなさいという神からのアドバイスではないでしょうか。そして、キリストの愛にとどまっているならば、やがて実を結び、惜しみなく愛を与え、枯れかけた枝でさえ生き返らせることができるようになるのです。難しい理屈は必要ありません。救い主、イエス・キリストにすべてを委ねるだけでいいのです。