「人をとがめる誤り」 マルコ福音書2:23-28
わたしたちは決まりや規則に縛られて生活しています。その最高峰がユダヤ教の律法であり、律法の最高峰が安息日の掟です。安息日は、わたしたちの暦では、土曜日ですね。ユダヤ人にとって土曜日は労働をしていけない日です。神様の礼拝だけする日です。いまでも、この掟は守られていますね。わたしがユダヤ教の研究のためにエルサレムに住んでいたことがありました。そのころは忙しかったです。研究のほかに、毎日朝6時には、旧神殿跡の嘆きの壁に行って祈るのです。そして、土曜日にはユダヤ教のシナゴーグ、つまり会堂に行って礼拝します。日曜日には色々な教会の礼拝に行きます。そんなある時、ユダヤ教の礼拝に出たら、「我と汝」という有名な本を書いたマルチン・ブーバーの伝記を書いたベン・コーリンという人に偶然出会い会いました。記念にサインをいただけますかと聞きました。すると彼は微笑んで言いました。「わたしは進歩的な考えを持ったユダヤ人だ。だが、さすがに安息日に文字はかけないよ。」そのとき。ユダヤ教の規則が今でも厳しいのを実感しました。字を書くのも禁止された労働なのです。イエス様の時代にはもっと厳しかったのです。ですから、今回の日課にあるように、麦の穂をつむことは、安息日に禁じられている労働と考えられたのです。
イエス様と弟子たちの様子を見た人たちは批判しましたね。安息日の規則違反ですから。実は、これは二千年後のわたしたちにも起こることなのです。回教徒は、豚肉を含む食べていけない食物の決まりは今でも守っています。また、わたしたちの社会や、わたしたちの心の中にも規則があります。それを破る者はを許されないのです。いじめも同じですね。学校の規則だけではなく、生徒の頭の中に、みんなは同じでなくてはならないという規則のようなものがあるのです。だから、皆と違う容貌、皆と違う態度、皆と違う生活状態の子供はいじめの対象になりやすいです。転校生などがターゲットになりやすいですね。自分たちのグループと違う者を排除するのです。これは、生物の本能でもあります。わたしは以前、水槽で熱帯魚を飼っていたことがあります。昼間の明るいうちに、新しい魚を入れると、前からいる魚たちがつついていじめて、死んでしまうことがあるのです。ですから、夜、電気を消して真っ暗にしてから、新しい魚をいれていました。魚は知能が低いので、朝になって違った魚が入っていても気づかないのです(笑)。教会でも同じでしょう。教会に古くからいる人たちは、見知らぬグループの人たちのような人が来ることを、決して喜んではいない筈です。まさか、つついて追い出したりはしないでしょう。ただ、態度は冷たいです。電気を消しても意味ないですね(笑)。逆に、ある集団の中でも、新しく来た人は、心の中では歓迎されていない筈です。それも、やはり、根本的には、人間の心の中には批判的な律法や決まりがあるからです。
人を苦しめる律法や決まりは、外側だけのものではありません。これが問題です。人がいない場所でも、自分の心の中に、自分を告発する規則があるわけです。その規則が、自分を責めるのです。これは辛いですね。日本人は時間に厳しいですね。新幹線ができたころ、到着時間が少し遅れただけで自殺した運転手がいました。残念なことですね。自分に厳しいようで、それは、自分の中に自分を告発するもう一人の自分がいるわけです。ユダヤ人たちも、イエス様を批判しただけではなく、自分自身を批判したに違いないです。集団のいじめなら、その場を逃げればいいわけです。だけれども、自分が自分をいじめているのでは、逃げ場がありません。最終的には、自分を殺して自殺するしかないのです。残念ながら、いじめで自殺する人は、もし自分自身が自分を守っていれば、自殺する必要はありません。自分を非難したり告発する人を無視すればいいのです。あるいは、場所を変えればいいのです。しかし、自分が自分をダメだと認定したら、生きていくことは難しいです。
そうした、多くの問題を抱えた社会に住んでいるわたしたちに、今日の日課はとても良い解決策を与えていると思います。
第一の解決策はユーモアでしょう。わたしが東京の板橋教会の牧師をしていたときに、隣の池袋教会の先生は故牛丸牧師でした。牛丸先生は、フンランドまで行ってルーテル教会の神学を学んだ人でした。とても知恵のある先生でした。ある時、礼拝の後で、婦人会の人が、先生に「礼拝中に走っている子供がいるので、親に注意してください」と言いました。これも、イエス様の時代のユダヤ人のように、規則にうるさい批判者ですね。しかし、もし、その告発通りに注意したらどうでしょうか。活発な子供をつれて、やっとの思いで礼拝に出ているお母さんは、きっと来なくなります。逆に、告発者に対して、「そんなに厳しくしなくていいですよ」、と言ったら、婦人会の人は来なくなります。牛丸先生は何と言ったと思いますか。彼は、「足があるんだから、しょうがないよね」と言ったのです。ほかの場面では、婦人会の集会か何かの際に、ある人が「先生は、わたしの葬儀はきっとしてくださいますよね」と尋ねました。おそらく、自分だけは特別に待遇してくれることを、皆の前で言ってほしかったのでしょう。牛丸先生は、これにもユーモアで接しました。「予定日はいつですか。」(笑)
この方法は、自分が自分を責める時にも使えるでしょう。過去の失敗に苦しむときにも、「人間なんだから、しょうがないよね」といえたらいいですね。
第二の解決策はとんちです。とんちで有名なのは一休さんです。一休さんは、仏教のお坊さんでしたが、規則に固まって形骸化した仏教組織を良くないと思っていました。一休さんが肉食女犯はものともしない、破戒僧だと聞いた殿様が、彼を食事に招待しました。そして仏教の規則では禁じられている食物をいれた御馳走をたべさせました。一休さんは規則とかに縛られない人でしたから、パクパクおいしそうに食べました。殿様は言いました。「お前は、坊主でありながら何でもたべるのだな。」一休さんは言いました。「ハイ。わたしの胃袋は東海道と同じです。なんでも通っていきます。」すると、殿様は刀を抜いて、言いました。「そうか、何でも通るなら、この刀をお前の胃袋にとおしてみよ。」すると、一休さんは、急にゴホン、ゴホンと咳を始めました。不審に思った殿様はどうしたのかと尋ねました。すると、咳がとまり、一休さんは言いました。「確かに、わたしの胃袋は東海道のようで、なんでも通りますが、ただいま咳(関所)が止まりましたので、刀はとおりません。」(笑)殿様は、感心して、一休さんにご褒美を上げたそうです。
さて第三の解決策は、今日の日課に書いてある、イエス様の答えです。
水槽の中の魚ではないですが、サドカイ派のユダヤ人たちは、鬼のような顔をして、イエス様を告発してきたと思います。イエス様が、ここで怒って相手を反撃したら、それは、告発者と同じ告発者になってしまします。例えば、電車の中でうるさくしている子供に、大声で「うるさい、黙れ」と叫んだら、同じことをしているわけです。社会の法律も同じです。人を殺してはいけない、という法律はわかります。しかし、死刑というのは、国家が認めた殺人です。同じことをしているわけです。
イエス様は、告発者を告発しませんでした。そして、サドカイ派のユダヤ人たちが聖書に書いてある、安息日の規則を振り回して批判してきたので、同じ聖書という共通基盤に立って諭したのです。当時の人びとが尊敬していたダビデ王も聖書の記事を見ると、確かに、祭司しか食べてはいけない規則になっている神聖なるパンを部下たちと一緒に食べたのです。これにはサドカイ派も反論できなかったでしょうね。
もう一つは、安息日に行った癒しの問題です。批判的なユダヤ人たちは、イエス様がまた安息日の規則を破るかどうかを注意深く観察していました。しかし、癒しの後で、イエス様は言いました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。」ここでわかるのは、イエス様は当時の安息日の律法という規則に、新しい解釈を与えていたことです。その新しい規則とは何か。それは、「新しい酒は新しい革袋に」という考えです。規則が第一ではなく、人に役立つことが規則の目的だということです。
こんな笑い話があります。外国である人が交通事故で瀕死の重傷を負いました。ただ、その人は洗礼を受けていなかったので、死んでから天国に行けるかどうか不安でした。たまたま、現場近くにいた神父さんに洗礼を頼みました。すると、神父さんは、「あなたは三位一体の神を信じますか。」などという、公教要理の質問を始めたのです。カトリック教会の洗礼の規則ではそうなっているからです。すると、死にそうな人は言いました、「規則はいいですから、死ぬ前に洗礼してください。」幸いに、ルーテル教会では、緊急洗礼という決まりがあり、誰でも「父と子と聖霊の名によって洗礼します」と言って、後で教会に報告すればいいことになっています。やはり、「新しい酒は新しい革袋に」という考えです。規則が第一ではなく、人に役立つことが第一です。つまり、愛です。「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)」愛の掟というのは、相手も自分自身も、をその罪も欠点も、律法違反も含めて、受け入れるという懐の深さのことです。愛は寛容であり、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(第二コリント13:7)これは、人を咎める行為の終焉です。もはや人を責めない、人に敵対しない、自分と違った人をいじめない、自分も責めない、それがキリストの愛でであり、批判や差別に対するイエス様の解決方法です。
また、イエス様が高価な香油の件でユダに非難された時がありました。ユダはそのお金を貧しい人に使った方がよかったと言ったのです。これも心の中の律法ですね。しかし、イエス様は、ユダを非難してはいません。高価な香油をイエス様に注いだ女は多く赦されたのだから多く与えたるのだと述べています。つまり、この問題を金銭の問題ではなく、愛の赦しの問題としてとらえているのです。神の愛とは、赦しの愛であり、十字架の愛のことです。これが、多くの非難や告発、争いにたいする、救い主イエス・キリストの答えです。この愛は、自分で努力して作ることはできません。教会の聖餐式も、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)」という、そのキリストの愛を受け取る大切な儀式です。