今週の説教

静岡県菊川ルーテル教会伝道説教(2024年7月7日)

「行って伝道し罪から救いなさい」              マルコ6:1-13

特別の祈り

全能の父なる神様、み言葉の種を、わたしたちの心の中にまいて下さったことを感謝します。聖霊によって、わたしたちがみ言葉を喜んで受け入れ、その教えに従って生活し、愛と希望と信仰において成長し、多くの人に伝道することができますように助けて下さい。御子イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン

 

讃美歌21

227番(1節、3節)、405番(1節、3節)、289番(1節、2節)、81番、88番

今日の話の主題は伝道ですね。前にもお話した248915のゴーの部分が伝道です。伝道と言えば、もと東海教区にいた故ネルソン宣教師の息子さんのデイビッド・ネルソンさんが日本のルーテル神学校を卒業して、今年の4月から宮崎教会に赴任しました。宣教師ではなく、日本福音ルーテルの牧師ですね。詳しいことは機関紙「るーてる」に書かれています。彼のお父さんのネルソン宣教師にはわたしもお世話になりました。アメリカの神学校で5年間学び、日本に帰って来たのですが、日本の神学校で、また2年間勉強しなさいと言われ、それに、アメリカのように平等ではない日本の教会の階層社会になじめず、自分は牧師になれるかどうか、心配していた時に、ネルソン宣教師に相談しました。すると彼は明るく言いました。「中川さん、心配しなくていいですよ。僕のようなものでもやってこられたのですから大丈夫です。」そんなわけで、彼は一人の牧師を誕生させる助けをしたわけです。さて、・ネルソンさんは、「るうてる」の記事の中でこのように書いています。「赴任した教会は10名前後の小さな群れになっています。ここに教会が存続し続けているのは、この小さな群れが教会を懸命に守ってきたからです。こうした粘り強い信仰心を持つ人たちと一緒にこれからの教会を考え、形成していけることは光栄なことであり、わくわくします。」これは極めて霊的で宣教的な視点から書かれた文章だと思いました。人間的な考えでは、小さなものは役に立たないように考えられがちだからです。菊川教会の皆さんも、この「粘り強い信仰心を持つ人たち」なのです。そうですね。アーメン

さて、イエス様の故郷であるナザレでの伝道は残念ながら失敗に終わりました。人々から。このように言われました。「この人はどこでこんな知恵を授かったのか。この人は大工さんではないか。兄弟たちもこの町に住んでいる。」彼らは人間的な眼でイエス様を見ていたのです。そして、イエス様の中に生きて働いている神様を見ることができませんでした。これを、聖書的な表現で言うと、肉の眼でしか見えなかったということです。肉というのは原罪のことです。今度、牧師になったネルソン先生は小さい教会のすばらしさを発見しましたが、教会に来ている人でも、ナザレの人びとのように、肉的な眼しか持たない人がいます。その人たちの気持ちは、「辛い、意味がない、悲しい、こうでなかったらよかったのに、」などの不満で満ちています。聖書にはこう書いてあります。「この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。」(ユダの手紙19節)ですから、肉の眼とは、「この世の命のまま」に生き方であり、霊的な考えができないことです。248915のゴーなどは無理ですね。イエス様でさえ、そのような人々を信じさせることはできなかったのです。

さて、その後、イエス様は、弟子たちを二人一組にして伝道の旅に出発させることにしました。イエス様は信者の大量生産を目的にしませんでした。ただ、弟子たちに「行け、悔い改めを説き、汚れた霊を清めなさい」と命じたのです。これが大切ですね。勿論、悪魔払いの道具もおまじないもありません。なにも持たないで「行け、悪霊退治を行いなさい」という命令です。無理です。しかし、ギリシア語本文を詳しく見ると、命令の意味がわかります。弟子たちにイエス様は穢れた悪霊に対する権能、ギリシア語の原語ではエクソーシアンを与えたのです。これが鍵ですね。このエクソーシアン(原語の意味は、意思を実行する自由)ということです。ですから、「神の意志を実行する自由」を持つ能力のことが救いだとわかります。それは神の御心を実践したイエス様の姿そのものです。

さて、現代の教会の伝道の問題点は、人集めになっていることではないでしょうか。イベントは伝道のきっかけにはなっても、伝道にはなりません。何故なら、「神の意志を実行する自由」を伝えられていない群衆は、集まるけど、去るのも早いからです。教会は週末の清涼飲料水のようだと言った青年がいましたが、都合が悪くなると去ってしまいました。しかし、イエス様の弟子たちでさえ、以前は群衆にすぎなかったのです。248915の1、つまり神様との一体化まで到達していなかったので、ゴーするには無理だったわけです。ですから、彼らも、ナザレの人びとと同じような肉的な考えしか持っていなかったと思います。ところが、イエス様は、不完全な彼らに食料も金も持たせず、二人ずつ伝道に派遣しました。そして、「行け、悔い改めを説き、汚れた霊を清めなさい」と命じたのです。

最小単位は二人でした。相棒が一人いればよいのです。こんな話があります。外国に二人の仲の良いクリスチャンの青年がいました。一人は牧師さんになり、一人は農民になりました。牧師さんは恵み深い説教をして国中で有名になりました。ところがある時からうまく説教ができなくなりました。後で知ったのは、自分のためにいつも祈っていてくれた友達が病気で亡くなったからでした。この話の中心点は、聖霊です。一人では伝道できません。助け手である聖霊の援助と祈りによって、伝道できるのです。

伝道の大切な働きの一つは、救いであり、悪霊からの清めです。エフェソ書をみますと、この清めについて書いてあります。「神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、けがれのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1章4節)ということです。ここに書かれている、「けがれのない」という意味は、原罪から救われている、という意味です。これを書いたパウロも清めの意味を深く知っていました。

わたしたちも同じです。罪のけがれに満ちた考えで、自分の生活を見ると、不平不満しか出てきません。あれが足りない、こんな失敗をした、周りの人が悪い、人生は不幸の連続だ。等々。そして、気づきません。そのように思わせているのは、人間の心の深いところに隠れている原罪であり、罪なのだと。

イエス様が、弟子たちに命じたのは、そうした原罪のけがれから、人々を清め、救うことでした。十字架ですね。

ここで大切なのは、弟子たちが勝手に行ったのではなく、旧約聖書の預言者であったエレミヤと同じように、彼らは神の力を受けて送り出されたのです。おそらく、この12人は後に12使徒となって権威をあらわしたのですが、まだこの時は弱い人々だったでしょう。弱い彼らが、食料も金も持たずに伝道に出たらどうでしょうか。さらに弱さや苦しみを経験することでしょう。人の幸せを願う神様なのにどうして彼らに試練を与えたのでしょうか。それは、弱さの中や苦しみの中にこそ248915があり、神への信仰が芽生えることをイエス様は知っていたからです。これも十字架の神学です。

逆に、人間が強い時には、原罪も強く働きます。モーセなども弱さの中で、神に送り出され、人間の力ではない神の力を体験しました。これをイエス様は弟子たちに言葉で教えるのではなく、体験させたのです。この経験によって、彼らは、魚を捕る漁師から、人をとる漁師に変えられたのです。

これは、菊川教会で横田先生が行ってきた助け合いの活動や、絹田先生ご夫妻の働くウウォーターバレーの活動も同じですね。活動が、苦しければ苦しいほど、神に頼らざるを得ないのです。そして、神に頼れば頼るほど、「人間には不可能だが神には可能だ」(マルコ10章27節)、ということが信じられてくるのです。

最後の部分に書いてある、伝道に無関心な人々に、足の裏の埃をはらうとは、もとはユダヤ人が異邦人の町から出るときにした動作です。つまり、自分と異邦人の習慣とは全く関係ないという象徴的な行為です。ですから、信じない人は神の裁きに任せなさいということなのです。無理して不信仰な者に伝道しなくてもいいのです。

「行け、悔い改めを説き、汚れた霊を清めなさい」という言葉は現代のわたしたちにも命じられています。ただ、行けという言葉は、遠距離だけを示してはいません。「炎のランナー」という実話に基づいた映画で、宣教師だったお父さんは、パリ・オリンピックのランナーだった息子に、台所で、「こうしてジャガイモの皮をむくことも神に仕えることなのだ」と教えています。つまり伝道は、その気になれば、どこでもできることなのです。作家だった故三浦綾子さんは家にたくさんキリスト教の冊子を置いておいて、牛乳屋さんや新聞屋さん、また訪問してくる人に渡していたそうです。これも伝道です。

わたしたちも、伝道の使命を喜んで引き受けたいものです。救いというのはエクソーシアン(意思を実行する自由)を与えられていることです。そして、人がイエス・キリストの十字架を信じて救われるのは、死者が生き返るのと同じです。「お前の弟は死んでいたのに生き返ったからだ」(ルカ15章24節)伝道とは、罪(死)を原因とする、辛い、苦しい、悲しい、などの気持ちから解放され、その中に良い意味を見出すことです。自分自身の十字架の中に救いを発見し、それを知らない人に伝えるのが伝道です。ですから、神に従った明るく、感謝に満ちた生き方を自分で楽しみ、それを喜んで伝えていきましょう。そして、暗証番号の248915のゴーの部分が伝道です。神の恵みの扉が開きます。(注釈:248915とは神の財宝の扉を開ける暗証番号で、2は人間的な考えの否定、4は信仰、8は横にすると永遠のしるし、9は苦しみから逃げないこと、1は神との一致、5はゴーであり伝道に出発することです。)菊川ルーテル教会はJR菊川駅から徒歩約10分のところにある教会で、静岡銀行菊川支店の近くです。(静岡県菊川市本所1200)宗派・宗教の違う方も礼拝に参加できます。

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