死ぬために生まれて
百人一首の一つに、「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣)という句があります。これを書いた本人の意図とは別に、自己流に解釈すると、これはわたしたちの人生そのものの実体でもあります。8月24日はわたしの誕生日ですが、この世に生まれ出ることは、やがてこの世を去ることと同義語でもあります。それを、「恨めしい」ととらえる人も多いでしょう。特に、大切な家族の一員の早世を経験した場合には、まさにそうです。日本古来の幽霊なども、「恨めしや~」と発声するのが常です。しかし、死に関しては、まったく異なった考え方もあります。ユダヤ人の文化では、誕生と死とは、港に停泊する二艘の船にたとえられます。一隻はこれから荒波を越えて長い船路につく船、もう一隻は長い旅路を終えて無事に港に帰った船です。勿論、前者が誕生であり、後者は死のことです。ユダヤ人は古来から、死を前向きに考えてきました。おそらく、この伝承を知っていたのでしょう、日本に来た宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島で仏教の高僧と対話した時にも、船の航海のたとえを用いています。ザビエルによれば、人生は無ではなく、帰る港(神の家)がある船旅なのでした。それにしても、人生は死ぬために始まっていることに違いはありません。イエス様は、ユダヤ人でしたから、ユダヤ人の死生観を知っていたのは当然です。しかし、それに新しい解釈を加えています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)つまり、死とは、単に帰港するだけではないのです。一粒の麦の譬えは、生命の根本原理だとも言えるでしょう。一世代の死によって、後代の者たちに恵みが授与されるのです。これは、植物界も動物界も同じです。確かに、死については恨めしい気持ちも残るでしょう。名残は尽きないでしょう。しかし、愛する者の死によって、残されたものの心には、「新しい種」が残されているはずです。多くの者は、それを知らないだけです。新約聖書では、イエス・キリストの十字架の死によって、弟子たちの心のなかに残された福音の新しい種が芽を出し美しく花咲き、実を結んだことが語り継がれています。それが「復活」だと言っても過言ではないでしょう。日本でも、古来から、葉隠れにあるように「武士道とは死ぬことと見つけたり」という死生観があります。これも、死ぬために生まれることを厭わない心構えではないでしょうか。ユダヤ人の伝統的な考えでは、人生の幸せは、死ぬときに初めてわかると言われています。死ぬために生まれることは、決して悪いことではありません。