印西インターネット教会

ワンポイント説教ヨハネ福音書6:59-69

この個所で大切なのは、霊的(神の世界)なものと肉的(人間界)の違いです。キリスト教を含む多くの宗教でさえ、人間界(肉的)の発想法が主流です。聖霊降臨を受ける前までの弟子たちも、人間界的な発想しかできませんでした。ですから、イエス様の語った言葉(神の世界)が理解できなかったのも無理はありません。このような、人間界と天界の間には、人間の知恵や努力では渡ることのできない深い淵があります。おそらく、教会に長くかよっている信者の方でも、自分がまだ人間界のほうに所属していることを自覚していない人がいるいでしょう。これは、伝道不振の原因でもあります。何故なら、人間界で四苦八苦している人が、他者に福音を伝えることは不可能だからです。ただ、いつまでも、それでいいはずはありません。今回の聖句の頂点は、6章65節の言葉です。神が人を招いているのでなければ、その人は深く暗い淵を渡って天界に入ることはできないのです。人間は完全に無力です。こうした深い信仰観は仏教にも見られます。仏縁と言います。良く知らない人は、仏縁を結婚の縁だと誤解していますが、違います。仏縁とは、仏の御慈悲によって悟りに導かれることです。ある僧侶は、「仏道を求める心がおこるのは、仏縁に出遇うからです。仏縁に出遇わない者に無上道心は発(おこ)りません」と書いておられます。この中の「道心」とは、キリスト教の「求道心」と同じです。もしかしたら、今日、偶然に、この記事を閲覧しているひとがいたら、その人は神様のご縁に生かされている人かも知れませんね。それを、本当にそうだと信じるときに、気が付けば、越えることが不可能だった罪と肉の暗い淵を、越えさせていただいているのです。そこに至って初めて、霊的(神の世界)なものと肉的(人間界)の違いを悟るでしょう。今回は、レベルの高いお話でしたね。理解できなくても結構です。神のご縁に出会うまで待っていてください。希望をもって待つのも信仰の大切な要素です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(新共同訳聖書ヘブライ人への手紙11:1)「されば信仰は望むことの根底に存するものにして、視ざる事柄の吟味なり」(永井直治訳新契約聖書ヘブル人への書状11:1)

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