今週の説教

菊川ルーテル教会伝道説教

「清いものと清くないもの」 マルコ7:1-8、14-15,21-23
特別の祈り
父なる神様、この世の救いのために、あなたが御子イエス・キリストの犠牲を与えて下さったことに感謝します。このことを覚えて、わたしたちが謙虚に生き、神の愛の定めに喜んで従うことができますように助けて下さい。御子イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
讃美歌21 358番、436番、504番、81番、88番  

ユダヤ人は衛生観念が発達した民族でした。わたしたちはコロナ流行でうがいとか手洗いの大切さを再認識しましたが、彼らは2千年以上前から外出したら必ず念入りに手を洗って食事をしていました。昔の世界では特別なことだったでしょう。この習慣の根底には、汚れ、汚染が外から来るという認識があります。これは現代医学と保健衛生から考えれば当然です。しかし、これは律法に基づく決まりでした。それは宗教的な儀式でもありました。
使徒言行録を見ますと、ペトロが「清くない物、汚れた物は何一つ食「べたことがありません」(使徒10:14)と言っています。2千年前のユダヤ人にとって、食べ物にかかわる律法が厳しく守られていたことがわかります。律法ですから、この規則を守らないと神様に救っていただけないことになります・
そして律法を守ることで彼らは神への従順さを示していると考えていました。信仰と生活様式は切り離せなかったのです。ある面でこれは大切なことです。現代の宗教の問題は、信仰と生活が切り離されていることだからです。おそらく、エルサレムからイエス様のもとに来た宗教的な人々も、同じように厳格な律法意識をもっていたのでしょう。彼らが、イエス様の弟子たちを見たら、手を洗わずに自由に食事していたのですから、これは信仰失格の問題でもあったはずです。
さて、ユダヤ人たちの「昔の人が決めた」と書いてある律法の習慣はイエス様の時代の千年以上前からのものでしたから、今から考えれば3千年も前のものでした。律法の伝統は彼らの誇りでした。パウロもガラテヤ書で、自分は「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラテヤ書1:14)と述べているくらい、パウロも律法を守ることに熱心だったのです。わたしの知人のカナダ人の人が律法熱心なキリスト教派に属していましたが、食べ物や生活の律法を守っていると、自分だけは神様に守られているという誇りがあったそうです。
ところが、イエス様は6節のところで、イザヤ書29章13節を引用し、習慣にこだわっている人々を「偽善者」として批判したのです。既に弟子たちの姿を見て憤慨していた人々は、イエス様から偽善者と呼ばれてさらに憤慨したでしょう。イエス様は、そのイザヤ書の引用だけでなく、8節では神の掟を捨てているとまで語っています。では、イエス様が考えていた神の掟と、同時の人が考えていた律法とはどこが違うのでしょうか。マタイ23:4にあるように、律法は当時多くの人にとって「背負いきれない重荷」だったのです。イエス様は、神の掟は違うと考えていました。何故なら、当時の律法によれば、好きな人がいても、相手が異邦人だったり、宗教が違ったり、罪人と呼ばれる人々だったら、結婚は無理だったわけです。この習慣に対して、イエス様は、それは本当には神の愛という掟に生きているのではなく、モーセの律法を自分の都合の良いように解釈して、差別をしているのだと指摘したのです。
愛の無視です。
今日の日課である申命記4章2節に「神の命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」とあったのに、人間の言い伝えを追加したのです。
ある、有名なクリスチャン・ドクターはこう語っています。「教会の本質は神の愛における人間の痛みと悲しみに対する共感と連帯にあると思うが、現実にはみことばの解き明かしという、知的理解にとどまるゆえに、神はしばしば、教会の中に閉じ込められてしまうことになる。」つまり、愛の実践のない頭だけの人間的な信仰ですね。
大切なのは、イエス様の教えです。神の愛が第一であるというのがイエス様です。人間が宗教的に決めたルールが第一であるというのが律法学者でした。わたしたちも、もしかしたら、日本社会が決めた多くのルールに縛られているかも知れません。身近な例がゴミの分別です。多分静岡県も同じだと思いますが、千葉県ではゴミは生ごみ、ペットボトル、プラスチックごみの3種類に分別しています。このルールを守らないと、ゴミの回収車が持って行ってくれません。ところが、最近ネットの情報で発見したのは、プラスチックごみは再利用のためのものではなく、生ごみを燃やすための燃料にしているそうです。それならば、プラスチックに紙が混じっていてもいいはずですが、現代社会の律法はそれをゆるしていません。
イエス様は愛なのか、それとも人間の決めたルールが第一なのかを追求しました。そして、ユダヤ人たちは外側のルールを守るという律法によって自分を清められると思っていたのです。イエス様は、神だけを正しいとしていました。人間の内側はむしろ汚れていて、外側を清めたり、罪人や悪い人を避けるような外面的な努力では、滅びの力には対抗できないと考えました。本当に救われなくてはならないのは内面です。それには、神の贖い、神の犠牲、神の清め、十字架が必要なのだと、イエス様の教えを通してマルコ福音書は強調しています。人間ではなく神である。人の意見ではなく、神の愛と神の言葉である。神が清め、神が汚染から守ることを信じなさい。これを信じ、異邦人に伝道する教会、罪人に交わる教会、社会の底辺で人の悩みと苦しみと痛みに共感し連帯し行動する信仰を持った教会がマルコの教会でした。
神が守るから安心です。自分の努力ではないのです。手を洗ったって、いつかは死ぬでしょう。生きている限りは様々な罪に汚染されるでしょう。しかし、御子イエス・キリストを十字架にかけ、贖いを成し遂げてくださった神こそが究極の清め主、永遠の命の与え主なのだから、心配しないでいいのです。
エルサレムからきた熱心な宗教家のようだったパウロは、先に述べたように「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていた」と書いています。でも、パウロも変わりました。イエス様の十字架の愛をとおして、自分の中の本当に醜い姿を知ったからです。わたしたちはまず自分に愛がないことを発見しなければいけないのです。そうでないと、外側だけ見ている偽善者で終わるでしょう。それをイエス様は望んではいません。
これはキリスト教の逆説なのですが、外から来る菌や、汚染や罪のけがれではなく、内部に罪というけがれを発見した時、つまり救われない自分を発見した時こそ救いの時なのです。自分が神を捨て、自分がイエス様を十字架につけた者であると信じた時に、聖霊の助けによって、わたしたちには悔い改めることゆるされ、「悪から離れさせ、祝福にあずからせ」(使徒言行録3:26)ていただけるのです。そこに無条件、無限の限りない赦しの福音があります。この救いを喜んで信じ、伝えていきましょう。

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