ワンポイント説教 マルコ福音書7:24-37
今日の個所は、イエス様の伝道活動の一コマです。イエス様の故郷はガリラヤのナザレですが、そこから西に向かうと地中海沿岸にでます。海岸地帯に沿って小さな港町が点在しましたが、そこに住むユダヤ人たちにイエス様は伝道したのです。ただ、この地方には、多くの異邦人も居住していました。その中の一人が、今日の聖書個所に出てくる、シリア・フェニキア生まれのギリシア人の母親です。彼女はイエス様が神の力を持つ人だと聞いて、悪霊につかれた自分の娘の癒しを求めてきたのです。その母親に対して、イエス様は、「自分の使命はまずユダヤ人を救うことだ、あなたを助けるのは、野良犬にパンを投げ与えるようなものだ」といって拒否します。いくら、神の子イエス・キリストだと言われていても、このような冷淡な返事を与えられたら、普通の人は失望するか、反発さえ覚えるでしょう。実は、この光景の背景となっているのは、人生における神の側からの「NO」であり「否定」なのです。この否定を理解しない限り、その人の信仰は、自己の願いの投影にしかすぎず、マルクスが嫌った宗教という阿片にすぎないでしょう。しかし、仏教でもそうですが、真実の信仰には、己の願いが砕かれる時があります。神の拒絶です。この拒絶に遭遇した母親の態度、そこに今回のワンポイント説教のクライマックスがあります。残念ながら、新共同訳聖書の翻訳には、そのすさまじいばかしの信仰の修羅場がみえてきません。28節の「主よ、しかし」という訳では全く緊張感を欠いたものになっています。ほかの翻訳ではどうでしょうか。以前の口語訳聖書では「主よ、お言葉通りです」となっています。この方が、ギリシア語原典に近い翻訳です。どちらかというと意訳が多い新改訳聖書ですら、「主よ。そのとおりです」となっています。では、原典に忠実な翻訳で知られている永井長治個人訳聖書ではどうでしょうか。「然り。主よ」となっています。原典では、「ナイ クリエ」となっていて、まさに永井訳そのものです。ここで、他の翻訳をはるかに凌駕して永井訳が卓越していることをお話ししましょう。そこにみられるのは、神の側からの絶対否定に対する絶対肯定あるいは絶対受容が、ここに表出されていることです。それがまた、極度の緊張感を生んでいるのです。禅の世界などでも、悟りに至るには、絶対否定にたいして、まったく抗おうとしない絶対受容が要求されます。この母親は、娘の治癒を切に願いながらも、神の側からの否定を「然り。主よ」と答えて謙虚に受け止めたのです。そして、なおあきらめず、パンくずでもよいからお恵みください、と嘆願したのです。絶対否定に対する絶対肯定、それは哲学で言えば弁証法の止揚の現象です。ここにおいて、信仰のありようが示されていると言えるでしょう。これは、神のノーに対する信仰者のイエスの対応の中にすでに奇跡の閃光がはしるという緊張に満ちた場面の描写でした。できれば、わたしたちの日々の生活の中でも、この母親のような信仰をもって生活したいものです。(この聖書個所はペリコーペに従っています)