閑話休題

スケボー下半身少年ケニーと父親

ユーチューブでスケボー少年のドクメンタりーを見ました。生まれつきの脊髄の障害で、下半身の切断を余儀なくされたペンシルバニア州の小さな町の少年ケニー・イースタデイは、障害を乗り越え必死で努力する姿が世界中に報道され、一時は、一躍有名人になりました。彼が主役になった映画さえ作られました。以前の報道を見たときには、必死に努力する彼の輝かしい面しか見ませんでしたが、今回は、ご両親の苦労話の場面などもあって、彼のおかれた苦境の全体像をつかむことができました。ケニーは1973年に生まれ、2016年に42歳で亡くなっています。しかし、本来ならば幼少期に命を落としている身体状況だったのに、ご両親の必死の努力で健康を回復し、成人にまでいたったのでした。ケニーが幼少のころ、お母さんは怖くてケニーに触れることさえできなかったそうです。自分が彼を生んでしまったことに対する罪責感もあったのでしょうか。その一方、ケニーが普通の少年として生活できるように支えたのはお父さんでした。お母さんは、ケニーを家の中に置いておきたかったのですが、お父さんは、ケニーに両手を使って歩くことを教え、知人からもらったスケボーに乗って町に出かけることも許しました。その姿が、報道陣の目に留まったわけです。もし、あのとき、おかあさんの言うとおりに、家でひっそりと過ごしていたら、ケニーの人生は全く違ったものになっていたことでしょう。外に出ていくことで、ケニーは怪我をしたり、好奇の眼にさらされたり、時にはあからさまに化け物呼ばわりされたこともあったでしょう。しかし、それを承知で、お父さんはケニーを普通の社会に出し続けたのです。ケニーのことを思っていたのだと思います。そして、ケニーが15歳の時に、ケニーはソウル・オリンピックの聖火ランナーの一人に選ばれました。その思い出を語るお父さんの眼には涙があふれていました。そして「あのときは、本当に息子を誇りに思った」と言いました。涙にうるんだその眼差しは、まさに愛の眼差しでした。聖書には神は愛であると書かれています。勿論、神を目の当たりにみることはできません。しかし、このケニーのお父さんのように、障害に苦しむ息子と共に必死で歩んできたお父さんの姿にあったのは、愛そのものでした。聖書の中で、イエス様は、神様のことを絶対者とか超越者としては伝えませんでした。イエス様はむしろ、親子関係の愛の中に、神の存在を見たのです。その一つで有名なのが、ルカ福音書に記載されている「放蕩息子の譬え」です。親の財産の半分を浪費し、遠くの外国で身を持ちくずした息子の帰りを毎日待っていたのは、愛情深い父親でした。息子がまだはるか彼方に姿を現したときに、父親は走りよって抱きしめ、温かく迎えました。それが、父なる神(親なる神)だというのです。今回のケニーのユーチューブ動画を見て、ケニーのお父さんの愛情深い姿勢に神の存在を再認識させられました。この罪の世に生きている限り、わたしたちは、本来の姿を失い、様々な試練に苦しんでいます。しかし、それはケニーのような存在であって、愛情深い神様はわたしたちを見捨てることなく、元気に生きていく支えを与え、わたしたちの小さな成功も、自分のことのように喜んでくれるのではないでしょうか。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネ第一の手紙4:7以下)最後ですが、ケニーの姓はイースタデイで、英語ではEASTERDAYであり、復活祭という意味です。

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