マルコ福音書12:38-44 「手放すことと、実を結ぶこと」
今年は、ハローウィーンも特別な事件もなく平穏に過ぎましたね。こんなときは、藤原定家の弟子であり、若くしてこの世を去った源実朝の句を思い起こします。「世の中は常にもがな なぎさ漕ぐ あまのお舟の 綱手かなしも」
舟を曳く細い綱が切れるように、自分の命を手放さなくてはならないことを予知したような表現が心をうちます。さて、今回の聖書個所をギリシア語原典で読んでみて、気になる点は、貧しい寡婦がささげた献金がビオンという言葉で説明されていることです。これは、新共同訳聖書では、「生活費」と訳されています。原典に忠実な永井私訳では「己が有(も)てるすべての物、その所帯」と詳しく書かれています。カトリック教会などで以前使用されていたバルバロ訳では、「持っているものすべて、暮らしの費用」となっています。これは口語訳聖書にも似ており、口語訳聖書では「あらゆる持ち物、その生活費全部」となっています。一方で、このビオスという言葉は、ルカ福音書15章にある「放蕩息子のたとえ」にも出ています。それは、息子が親の財産を要求した時の「財産」という意味で用いられています。さて、ここで、イエス様から最もたくさん献金したと賞賛された寡婦の献金は、「生活費」でしょうか、それとも「財産」でしょうか。どちらだともいえるでしょうね。しかし、ビオスにはギリシア語のゾエー(生命)と同じ意味が含まれています。ですから、ここでイエス様が弟子たちに教えたかったのは、生活費とか財産とかの金銭問題ではなく、命をささげる、ということだと思います。それはまさに、十字架の神学ですね。なぜならば、神にささげたものは決して無に帰すことがないからです。ささげられた命、つまり手放した命は多くの命を生み出します。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)ビオスは、金銭だけでなく命でもあり、命と愛とは神の名称でもあるからです。この記事を読んでくださる方が、何かを手放すのが惜しくて悩んでいたら、ぜひ神に祈って手放してください。あの寡婦とおなじように、きっとその行為は多くの実を結ぶことになるでしょう。