今週の説教

ワンポイント説教マルコ福音書13:1-8

来週が教会歴の最後の日曜日なので、今回の聖書個所にもギリシア語のテロス(終わり)という言葉が入っています。イエス様は、エルサレムにあった壮大な神殿を見て驚嘆する弟子たちに、すべての物には終わりがあることを教えました。つまり、テロスです。その反対に、始まりという意味のギリシア語、アルケーについても語られています。わたしたちの日常的な感覚では、始まりがあって終わりがあるということでしょうか。儀式などでも、開会式があって閉会式があるようなものです。人生にも、誕生があり死亡があるのも、これに似ています。ただし、このアルケーとテロスの意味を詳しくみてみますと、これは、単純に最初と最後の意味ではないと分かります。なぜならば、アルケーという言葉ですが、これはアルカイック・スマイルなどという考古学の用語にもなっている古代という意味と、もう一つ、創造という意味が含まれています。つまり、これは個人の生命にしても、世界にしても、その背景に創造者の統治と導きがあったという意味です。他方、テロスの方には成就するとか、完成するという意味が含まれています。キリスト教の歴史観は、カルマのような反復的なものではなく、天地創造から世の終わり(完成)に至る直線的なものです。そして、そこに常に創造者の導きが認められます。偶発的ではないのです。今回の聖書個所には、このすべてを包括する、アルケーとテロスが含まれています。それを深く理解するならば、わたしたちが生かされている世界は偶発的なものではなく、死も世の終わりも、神のご計画の中での完成なのだから、恐れることはないということです。ただ、それでも自分の人生の始まりと終わりに不満を持つ人もいるでしょう。「なんで自分はこんな不幸な人生を送らなければいけないのか」とか「自分はみじめな死を迎えようとしている」などの考え方です。それにたいして、アルケーとテロスを十分に理解したパウロはこう述べています。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」(ローマ信徒への手紙9:20以下)そうです、人間の最初(アルケー)は粘土であり、粘土は聖書ではアダムという言葉と同義語です。神様は、一人一人のアダムを必ず完成してくださるというのが聖書的信仰の人生観です。そこには終わりへの絶望ではなく希望があります。

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