死体遺棄罪とは何か
奈良市の霊園で死体が発見されました。まあ、霊園といえば、死体や遺骨に関係ある場所ではありますが、地面から人間の手首が出ていたので騒動になったわけです。そして、その遺体が埋められていた区画を所有していた人が逮捕されました。罪名は死体遺棄罪です。ただ、ここで問題なのは、死体は逮捕された男性の実母で、殺人ではなく自然死だったわけであり、埋めた場所も自分が所有する区画だったのです。ここで、死体遺棄罪の内容を見てみますと次のように書かれています。「第百九十条 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。」犯人とされた人は、自分の母の遺体を損壊したわけでもなく、それを野原に捨てたわけでもありません。
似たような死体遺棄に関する例が以前にもありました。それは、外国人実習生が死産した自分の子をダンボールに入れて家の中に保管していた件です。第一審では有罪になりましたが、最高裁は、これを死体遺棄とは認めがたいとして無罪判決を下しました。判決文は以下の通りです。「最高裁は、以下のとおり、被告人の行為は死体遺棄罪に当たらないと判断し、被告人を無罪としました。 刑法190条は、社会的な習俗に従って死体の埋葬等が行われることにより、死者に対する一般的な宗教的感情や敬けん感情が保護されるべきことを前提に、死体等を損壊し、遺棄し又は領得する行為を処罰することとしたものと解される。したがって、習俗上の埋葬等とは認められない態様で死体等を放棄し又は隠匿する行為が死体遺棄罪の「遺棄」に当たると解するのが相当である。そうすると、他者が死体を発見することが困難な状況を作出する隠匿行為が「遺棄」に当たるか否かを判断するに当たっては、それが葬祭の準備又はその一過程として行われたものか否かという観点から検討しただけでは足りず、その態様自体が習俗上の埋葬等と相いれない処置といえるものか否かという観点から検討する必要がある。 被告人は、自室で、出産し、死亡後間もない本件各えい児の死体をタオルに包んで段ボール箱に入れ、同段ボール箱を棚の上に置くなどしている。このような被告人の行為は、死体を隠匿し、他者が死体を発見することが困難な状況を作出したものであるが、それが行われた場所、死体のこん包及び設置の方法等に照らすと、その態様自体がいまだ習俗上の埋葬等と相いれない処置とは認められないから、刑法190条にいう「遺棄」に当たらない。」
この点から、イエス・キリストの処刑と埋葬を考えてみますと、十字架にかけられるような大罪であったにもかかわらず、きちんと埋葬することが許され、横穴式墓所には石のふたもされていたというのは興味深いことです。それが行われたエルサレムでは、最後の晩餐をした場所の裏手がケドロンの谷になっており、一般の犯罪者などはここに「遺棄」されていたようです。わたしがエルサレムに住んでいた時に、この辺を散歩したことがありましたが、ちょうど道路工事で溝が彫られていました。中をのぞくと、白い人骨が何層にもなって重なっていました。聖地という名とはうらはらに、遺棄された遺体も多かったのだなと思いました。一方で、「遺棄」されなかったイエス様の墓は、現在はその上に聖墳墓教会という大きな建物ができていて、世界中からの巡礼者が集まる名所になっています。奈良の「遺棄」事件でも、お母さんの遺体をもう少し深く埋めてあげれば、人々の敬虔感情を逆なでることはなかったのかもしれません。ただ、犯人の71歳という年齢と、まだアルバイトをしていたという状況を考えると、死亡届を出さず親の死を隠ぺいして母親の年金をもらい続ける算段だったのかもしれません。刑法190条ができた時点では、人々はそれほど自己中心的でもなく、死者の権利を横領するための遺棄があるという想定がなかったようです。憲法改正などと言うまえに、刑法なども時代の変化に相応した形にすべきだなと思いました。